吐き出す場所が欲しい。
おそらくそういう事でしょう。
私にとってブログは劣悪な自分の言葉を吐き捨てられる場所。
ここでこう言うことが良くないのはわかってる。
しかし、人の心の中には多かれ少なかれそういう心理があるのでは無いでしょうか。
モノを殴ったり、何かに当たったりする。
その一つの衝動がイジメかもしれないな、と。
弱い者を虐める。
反抗しないから、それで良いんだと勘違いする。
相手の弱い者とされた者は自分を受け入れてる、と勘違いしてる。
強いから受け入れてくれてる。
甘えです。
虐める側の甘えです。
だから、良いんだ、と思う様にしてる。
受け入れる方が悪いんだ、と思おうとしてる。
子供が親にとことん甘えるように。
もしかしたらプーチンはウクライナに対してそういう感覚を持ってるんじゃないか、とすら思えたりする。
攻撃してもいい存在。
隣にいる弱い存在。
アメリカにもそうかに始めたのかな?
「弱くて騙されやすいじゃんトランプ」って。
そんなことは私がここで考えてることとは違う。
ここで吐き出す言葉は他人のためではない。
自分に向いてる。
だから他人が見て嫌悪を感じるなら見ないで良い、と。
そういうもの。
な、筈なのに、閲覧者がいると嬉しい。
そこに、ある意味罠があるのかもしれない。
見てる人がいると、嬉しい。
嬉しいから尚攻撃的な言葉で目を引こうとする。
そうしてだんだんとイジメにつながっていく言葉を持ち始める。
結局は自己満足を追求してる。
ならばサンドバックでも叩いて解消しろよ、って。
でもそれでは刺激が足りない。
そうかに始めてる。
人の心の中にある攻撃性なのかもしれない。
なら、それを解消するにはどうするのがいいですか?
だから、ヨガとか運動とか?
或いはゲーム?
しかし、やはりそこからだんだんとコミュニティに向かった攻撃性が伸びる。
攻撃はおおよそ人に向かう傾向が見え隠れする。
他人が居るから自分が居る。
そこを忘れない事。
大事な事だ。
でも、やはり攻撃したい衝動が起こる。
負けを知ったボクサーはどういう感情になるのだろう?
攻撃が目的のボクサー。
攻撃されて倒されて、それでも尚闘うとしたら?
どうするのか?
どういう感情で闘うのか?
絶対負けない、という体制でないと闘えなくないか?
何故なら怖いから。
負け倒してる自分にとって、ブログに吐き出す言葉はそれに近くないか?
どこかに防御をしてる。
そんな気もする。
先にお断りをしてる。
常に予防線を張ってる。
でも攻撃的な言葉を投げかける。
予防線を張ることで安心を保とうとしてる。
安心安全なところにいるから、それができるのか?
まぁ、そうだろう。
プーチンも安全を担保してるからああいう戦争ができる。
なんだか、人はみんな同じな気もする。
お互い様。
なのに衝突する。
そして、やはり攻撃的な感情を発散しないとやってられない暮らしをする。
ここに煩悩のイヤぁなところがあるのかもしれないな。
でもしようがない。
人間だもの。
暴言。
それは存在し続けそうだ。
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