子供の頃から嫌われてたと感じました。
数日前に、昔を思い返して そう言えば嫌われる行為をされてたなぁ、と。
でも、その時は嫌われてると気づかなかった。
自分はいわゆる普通に接していた。
それで良い、それが普通だと。
でも、やはり今更ですが、思い返してみると、何か、どこか変だったなぁ、と。
人々の自分への対応が違ってたなぁ、と。
それで良いと思ってました。
でも、違いを考察すると、嫌われる人に対する行為を受けていた、と思うのです。
そういう行為を受けていた理由はないだったのだろう、と。
想像できることは、自分が自由奔放な相手を思いやる行為、思いやった言葉を、使っていな買った。
そこをよく考えて、人と接してなかった。
自己中でした。
自分の視点でしか意識してない。
確かに相手の意識を思いやるのはなかなか難しい。
そして、自分は人の気持ちがわからない性格。
例えば、奥さんがうなぎのお店のチラシを見て、大きなうなぎのお膳を見て、食べたいなぁ、と言ったとする。
お膳にはご飯もたくさん入ってて一人で食べられないだろうくらいに入ってる。
とても値段が高い。
そういう場合に、私の思考は、それならそんなモノよりもうなぎをスーパーで数匹買って食べる方が得だし、たくさん食べられるからそれが正解と判断します。
でも、違っていて、奥さんはきっと、そういう贅沢感というか、そういううなぎのお膳という雰囲気を味わいたいのでしょう。
だから、スーパーで買うのであれば、気持ちの方向が違う。
ならイイ、となる。
つまり、私の判断は相手の気持ち、意識をしっかりと受け取った上での言葉が、まずは必要。
なので、その場合は、そうだね食べたいね、という同意が最初に必要。
それだけでも、感じ方は大きく違う。
本当に一番良い答え方はわかりません。
おそらく無理して食べに行ったとしても、それはそれで違うような気もしますから。
言葉のキャッチボールはとても難しい。
おそらくそれは自分に対してもそうでしょう。
自分が本当に何を欲してるのか、もっと本気で考えてみることがいいような。
そして、言葉ではなく、身体で感じ取れることの方が正しい場合が多い。
頭で考えるのではなく、身体で感じとる。
身体の奥底から感じとる。
そこには意識ではなく、言葉を使わない感覚。
だから「禅」なのか。
そうとも言えるのかもしれないな、と。
でも、言葉が、理屈がいつも脳裏を追いかけてくる。
そして、理屈で判断してしてしまう。
理屈は自分の本心を捻じ曲げるのではないかしら。
子供の頃から自由奔放だったけれど、それは対人関係のこと。
そこは言葉で。
しかし、自分の心は身体全身で。
そのように行動するのが良さげですな。
でも、「嫌われる勇気」という本もある。
だから、嫌われる事を否定する必要は無いかな。