
母の調子があまり思わしくないようです。
母は、故郷の県の介護施設に入っています。
今の私の住まいからは約500キロほど離れてます。
兄の自宅のすぐ近所にある介護施設です。
兄から「足が不調で歩けなくなってて身体の調子が良くない」と電話がありました。
母は最近までは手押し車を使えばなんとか少しは歩けたらしいです。
それが身体の不具合で車椅子を使わないといけない、寝たきりの状態に近くなってきたらしいです。
母は既に95歳、長寿です。
そに上に 約10年前に心臓疾患で心臓に人工具を入れてます。
その器具の耐性がおよそ10年らしいのです。
それが原因かどうかはわかりません。
診察してる医師はそういうことは言ってないみたいです。
でも私にはそれが関連ありそうに感じます。
分かっていながら、やはり普通に生活してると安心してしまう、未来の危惧に対して麻痺する感覚。
近いうちに母に会いに行こうと思います。
会って何ができるというわけではないです。
ただ合うだけ。
でも、それが大事なことのように感じます。
コロナの時代に麻痺した感覚、本来人に於ける重要な、最も大事な感性の一つではないか、と。
ただ面と向かって直接会うこと。
それだけ。
以前にも書きましたが、私は生家では自他ともに認める一番母に迷惑をかけた張本人。
尋常ではない迷惑をかけました。
実家では私は犯罪者扱いクラス。
その私がどの面さげて行くのか?
でも、今までもそうしてきたし、今でもそうして生きてる。
そうした生き方しかできない。
だから、それを受け入れた上で、会いに行こうと思います。
会うと言っても施設ですから、ガラシ越しに面会するしかないコロナの時代。
それでもイイと思います。
人には運命などという言葉では割り切れない時間がある気がします。
認めたくないけれど訪れる時間。
それがいつかはわからない。
だから幸せの神様には前髪しかない、と表現される。
不幸の神様にも前髪しかない。
とにかく、未来は誰にも認識できない、という事実がある。
誰にも判らない未来を想像するよりも、今を納得できるように生きるしかない。
今、自ら行える最善の行為を持って暮らすしかないと。
そう思います。
できてるか?
できてません。
じゃあ、今からでもやれよ。
です。