つぶやき、或は三文小説のやうな。

自由律俳句になりそうな、ならなそうな何かを綴ってみる。物置のような実験室。

掌編・タイトル未定(ノラ)

2016-09-13 18:54:23 | 文もどき
あの犬がうらやましい。
韮山喬史は本気でそう思った。書き出しにしてはインパクトがあって、うまいフレーズを思いついたとにやついてひとり悦に入った。だけど、どこかで聞いたことがあるような。テーブルに放り出したバッグを漁り、擦り切れた文庫本を取り出して納得がいった。文豪の処女作の出だしにそっくりだった。
右手でノック式ボールペンをカチカチしながらめくったページを左手で戻す。無理やり意識をノートに戻して、ようやく今日の日付を書き入れた。
カチカチカチカチ。
明るいレモンイエローの表紙のノートには、あらかじめ書き込む項目と欄が印刷されている。日付、天候、散歩の有無、食餌の量。ご褒美のおやつがある場合はそれも。喬史は機械的に手を動かして欄を埋めていく。散歩の欄が一番細かい。開始時間と帰宅時間、排泄の回数、通った道(これは目印の建物や、取り決めのルートを記入する)、散歩中の様子までつぶさに報告せねばならない。いつもと同じ、は禁句、異常なしもダメ。4本めの電柱を熱心に嗅いでいたとか、草むらに顔を突っ込んだとか、そんなことを書き込んでいく。
喬史の座っている椅子があるダイニングテーブルの向こうに、ノラが見える。ソファの真ん中に丸くなり、眠たげな顔をしてこちらを見ていた。目が会うと、ぱたんと一度だけ尻尾を上下させる。早く続きを書いてしまいなさいとでも言いたげだ。いや、こいつはいつもそうだったっけ。喬史はほんの少しペンの先をあげて応じ、再びノートに戻った。
ノラと喬史は15分前に散歩から帰宅した。
バスルームでノラの足をシャンプーで洗い、全身を濡らしたタオルで拭う。マズル呼ぶ鼻面と垂れ下がった耳の内側を特に念入りに拭くように、とトレーニング期間に指導された言いつけはきちんと守っている。いいよ、と解放するとノラは一目散に誰もいないリビングへ走っていき、ソファに飛び乗る。そこでおすわりの姿勢になって尻尾をぶんぶん振り回して、待つ。喬史は洗ったタオルをバスルームのハンガーに干し、自分の足を尻ポケットから出したハンカチで拭って靴下を履き直す。それからトイレでノラの排泄物を流してからブツが入っていたビニール袋を丸めてプラスチック製の小さなゴミ箱に捨てる。喬史がリビングへ入ってくるときもまだ、ノラは尻尾を振り回している。喬史がソファに座るのを待っているのだ。それを無視してダイニングテーブルにつき、ノートを広げるとノラはようやく諦めて丸くなる。そして、喬史が残りの仕事を終えるまで、目が会うたびにぱたんぱたんと尻尾を動かし続ける。
表紙に癖のある痩せた字でNoraと飼い主の手で記されたノートはわんにゃんフレンドサービスが長期契約の顧客に用意しているもので、使い方は自由だ。ノラの飼い主の場合はたまに書き込みがあるくらいで、たいていは喬史が綴る報告書でページが埋まっている。目立った長文と言えば、はじめに書かれたお願いくらいのものだ。
喬史がノートを閉じる。微かな紙の擦れ合う音に敏感に反応して、ノラが顔を上げる。
寝てたんじゃないのかよ、おまえ。
尻尾がまた旋回しはじめる。喬史はソファの空いたスペースに腰をおろす。高価いのか安価いのかわからないふかふかした椅子におさまると、ノラがいそいそと向きを変えて腿に覆い被さる。身体が小さければ、膝の上に丸くなるのだろう。ノラの身体は喬史の上におさめるには大きすぎた。大女だがやさしく温和しい。喬史はノラが他人に吠えかかるところはおろか飛びつくところも見たことがない。ただちぎれんばかりに尻尾を振って、足元の匂いを嗅ぐだけなのだ。
ノラを散歩させていると、ときおり知らない人から声をかけられる。ノラちゃん、ノラちゃん、とおばあさんやおばさんやおじいさんが呼び、頭を撫でる。仕方なく喬史も挨拶を交わし、つかの間世間話をすることになる。彼らのうちのいく人かの家をノラは覚えていて、姿がなくとも立ち止まったりする。いないよ、と喬史が宥めるとようやくまた歩き出し、何事もなかったかのように草むらに突進したりする。いれば喜ぶが、いないから落胆することもない。人前に出ることを躊躇わないし、肩肘を張ることもない。
もっとも、犬には肩がないけど。
ノラは目を閉じ、鼻息を立てて眠っている。撫でても何の反応も示さない。そうされるのは当然で、危害を加えられることなど思いもつかない。安心しきって喬史に身を預けている。
ノラ。
喬史が呼びかけると、小さく耳が動いた。