第十九章 「ガンガデーヴィー天女」・夢中の業
シャーリプトラが言った。
「・・・・・・(省略) 仏陀世尊でさえ思いはからって(『私の生死する身心は尽きたのだ』というように) 滅尽の思いを起されます。その(仏陀の)行為も増えたり集まったりするのですか」スブーティが言った。
「そうではない、シャーリプトラ長老よ、それはなぜかというと、如来はすべての区別や思い計らいを滅しておられて、それはたとえば虚空のようなのです。
シャーリプトラ長老よ、行為はよりどころとなる対象がなくては起りません。心はよりどころとなる対象がなくては起りません。ですから、シャーリプトラ長老よ、よりどころを伴なったときだけ行為は起るので、 よりどころのないときは起りません。よりどころを作ったときだけ心は起るので、よりどころのないときは 起りません。
シャーリプトラ長老よ、知識というものは、見たり、聞いたり、考えたり、知ったりしたもの について生じるのです。そのばあい、ある知識は汚れ(雑染)をとらえ、ある知識は清らかなもの(清浄) をとらえるのです。ですから、シャーリプトラ長老よ、意志(思)はよりどころとなる対象を伴なってこそ起るが、よりどころなしには起らないし、行為もよりどころとなる対象を伴なってこそ 起るが、よりどころなしには起らないのです」 (「八千頌般若経Ⅱ」 梶山雄一訳 中公文庫・大乗仏典 3 p153)
私の解釈
仏陀世尊つまりお釈迦さまは滅尽の思いを起される。それは、すべての区別や思い計らいを滅せられ、あたかも虚空のようである、というのです。
これに対して私たち凡人の心は、常に、煩悩に汚染されています。このため私たちは絶対的に「すべての区別や思い計らいを滅すること」ができません。
はっきりいえることは、お釈迦さまも私たち凡人も心や行為は、よりどころを伴なって起るものである、ということです。
お釈迦さまは虚空のような心で、よりどころを受けとめ、私たちは煩悩で汚染された心でその「よりどころ」を受けとめているのです。
私たちが仏教を学び、お釈迦さまの教えを守る目的は、心の中の汚れを少しでも取り除くためであると私は考え、次のような心がけるように留意しています。
つまり、「集まる苦しみを滅するためには八正道を基にして、八正道の一つ一つを心がけること」です。
八正道の一つ一つには、これら八正道のすべてが含まれている、と思うわけです。
注: 「岩波仏教辞典」によりますと、八正道の意味は次のとおりです。
正見(ショウケン): 正しい見解、 正思(ショウシ): 正しい思惟、
正語(ショウゴ): 正しい言葉、 正業(ショウゴウ): 正しい行い、
正命(ショウミョウ): 正しい生活、 正精進(ショウショウジン): 正しい努力、
正念(ショウネン): 正しい落着き、 正定(ショウジョウ): 正しい精神統一
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