第十五章 「不退転の(菩薩の)形状としるしと証拠」 ・魔
世尊が仰せられた。
「・・・・・・(省略)
さらにまた、スブーティよ、不退転の菩薩大士は物質的存在の表象を作為せず、物質的存在の表象を生じさせない。
感覚の表象、表象の表象、意欲の表象についてもそうであり、思惟の表象を作為せず、思惟の表象を生じさせない。
それはなぜか。というのは、不退転の菩薩大士は、もろもろのものはその固有の性質が空なるものであるということによって、菩薩としての決定した位に達しているからである。
しかも、そういうものさえも認識せず、作為せず、生じさせないのである。
だから、ものは生じないという真理の受容(無生法忍)をもった菩薩大士は不退転である、といわれるのである。
スブーティよ、これらの形状、これらのしるし、これらの証拠をそなえている菩薩大士も、無上にして完全なさとりから退転することがない、と考えられるのである。・・・・・・(省略)」
(「八千頌般若経Ⅱ」 梶山雄一訳 中公文庫・大乗仏典 3 p117)
私の解釈
表象とは「知覚に基づいて意識に現れる外界対象の像」(広辞苑)という意味です。
ですから、「表象を作為せず」とは、意識しないということになります。
不退転の菩薩大士は何を意識しないかというと、五蘊(色・受・想・行・識)のすべてを意識しないというのです。
つまり、この方たちは物質的存在も、感覚や思索や意欲や認識に関わる事柄すべてについて意識しないというわけです。
その理由として、これら五蘊の全てはその固有の性質が「空」であるからだ、というのです。
さらに、菩薩大士は事柄とか事物とかいうものを、すべて「空」であり「無相」なるものとし、「無性法忍」(「もの」は生じないという真理を受容する)の境地で捉えると説かれています。
このことに関連して、別の経典では「ものの本体は空であるから、感官知による認識が生じているときには、その対象を見ることはできない」といい、
また、西谷啓治博士は「事実は、無相なるものとしてのみ、真に事実として現成する」 と説明されています。
このように説かれれば、私たちは何となく、分かるような気がします。
しかし私たち凡人は絶対に「無性法忍」の境地に達することはできません。
何故なら、私たち凡人は宿命的に「もの」にとらわれ、それらに翻弄されているからです。
私たちは常に因縁によって生じたり滅したりするする「もの」に執着しながら生活しています。
私たちは何となく、心の中に「空」とか「無相」とか「無生法忍」の世界というものが存在し得るということは分かります。
しかし、そのような世界に常住することは絶対にできない、と思います。
何故なら私たちは、因縁による生活をしているからです。
私たちは、この世に誕生して以来、両親を始めとして多くの人々から愛情その他無数・無量の影響を受けながら成長し続けてきたのです。
ですから、私たちの心の奥底にはもはや修正不可能な刷り込みが施されているために、私たちは、わたしたちの心の中とか思索の場を一時的には可能かも知れませんが、常時「空の場」とし「無相」にしておくことはできません。
私たちにできることとしては、まず、このような世界の存在を認め、それに向かって、それを目標にして精進することであり、
そのうえで、私たちが体験する事柄は因縁さえ変えれば、その様相も変わるということを常に念頭に置くことである、と私は考えます。
般若心経によりますと、「空の世界」には一切の苦しみや厄介ごとなどは存在しないと説かれています。
だから、私は毎日飽きもせず般若心経を唱えているというわけです。
私の先日のコメントを読んでいただいてありがとうございました。
私は毎朝斉藤一人さんの今日の言葉を読んでコピーし、それをカットし、カード化して、クリップ止めしたものを読んでいます。(pcの電源を入れてから使用可能となるまでの時間など)
今朝、読んだものの中に「繁盛する店や伸びる店の特徴は、経営している人が謙虚であること」とありました。
人間も同じだと思います。やはりどんな場合にも、謙虚であること、謙虚に人の言うことを聞くことは良いことだと思います。
そこで一言。
私は苦しいときに、ある言葉について考えることにしています。それは
「八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)のうちの、物事について正しい見方をすること、正しい考え方をすること、正しい行いをすることを、特に重要視すること。
ものごとは、すぺて夢・幻・陽炎のごときものだ。
ものごとは水のアブクのようなもの、蜃気楼のようなもの、水面に映るお月さんのようなものだ。
現に今現在なにも その実体は存在していないのだ。だから苦しむことはない」
というふうに考えて気持ちを鎮め、心の中が気楽になるようにするのです。
その上で、そのとき出来ることに夢中になって取り組むのです。
そうすれば、私は厭なことや苦しいことから離れることができるのです。
しばらく、暗闇の中で心が死にかけていました。
そんなときにコメントを読ませていただき
大変、うれしかったです。
>「空の世界」には一切の苦しみや厄介ごとなどは存在しないと説かれています。
私も、果てしなくそれを目指して生きていきたいと思います。
いつもありがとうございます(*^_^*)
私は海山人さんのブログを毎朝拝読しています。
とても心が落ち着きます。
感謝しています。
「空」については、私も全く同感です。
人間として誕生してから休むことなく刷り込まれ、成長し続けてきた脳(心)の中が「空」になるなんて有り得ないことと思います。
でも、私たちは、その「空の場」で生活していることに気づいていない、(というよりも、少なくとも仮想することによって、その場を体験はできる)ことも事実だと思います。
考え方が矛盾しているようですが、私はこのことが自覚できるようになるために、佛教を学んでいます。
そのためにも心を静かな境地に落ち着かせることが重要であり、「般若心経」を唱えることが必要である、と思っています。
ですから、心を落ち着かせてくださる海山人さんのブログは私にとって、とても力づけになります。
ありがとうございます。
こちらこそ今後とも何卒よろしくお願いします。
ございました。
空になりたいと願いながらも、この世で生きてる
限り、無理なことと達観しております。
私は…神仏の存在は、それぞれの心のなかに在り、
支えであると信じております。
体が滅びても、魂というエネルギー体は存在し
ある場所に帰る…それは宇宙の一部として。。。
言葉の存在そのもが、生きてる証であり、人として
活きる術だと思う、今日この頃。
ブログを通して、あなたと知り合えたのも何かの縁。
今後とも、よろしくお願いいたします。
コメントありがとうございました。
namiママ先生は青二才どころか、それが本当の真理に迫る考え方であり、生き方であると思います。私も同じ考え方です。
正攻法さえ守っていれば幅広く生きるのが人生だとは、私の青年時代からの生き方です。
namiママさんの正直な生き方、真摯な教育哲学にいつも賛同しています。
私は短い時間しか取れませんが、読書の毎日です。
「八千頌般若経」は、二回目を三ヶ月ほど前には読み終え、今別の本を読んでいます。
「八千頌般若経」は何年間でも読み続けたい本のうちの一冊です。
最近、特に意識して「八正道」を心がけるようにしています。その理由は自分でも分かりません。
>事柄とか事物とかいうものを、すべて「空」ととらえる。
>私たちは常に因縁によって生じたり滅したりするする「もの」に執着しながら生活しています。
相反しているようですが
背中合わせですね。
因縁による執着が煩悩なのでしょうか。
それに振りまわされる経験をしてこそ
目指したいと思う「空」
生きてるうちに、煩悩にたくさん振りまわされて
そこからしか「空」をみつめるしかできない
青二才でした(^^)