八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

八千頌般若経」を読む (35) [仏教の根本思想]

2007-08-30 04:20:32 | Weblog

第二十二章 「善友」・不増不減

 世尊はスブーティ長老にこうお答えになった。

「しかしながら、スブーティよ、知恵の完成への道を追求する菩薩大士は増えも減りもしないのだ。

 スブーティよ、知恵の完成が空であり、増えもしないし、減りもしないように、スブーティよ、菩薩大士も空であって、増えもしないし、減りもしないのである。

 スブーティよ、知恵の完成が空であり、増えもしないし、減りもしないように、スブーティよ、菩薩大士も空であって、増えもしないし、減りもしないから、

 菩薩大士はさとりに到達できるのであるし、同じく、無上にして完全なさとりをさとれるのである。

 以下・・・・・・(省略) 」

(「八千頌般若経Ⅱ」 丹治昭義訳 中公文庫・大乗仏典 3 p217)

 私の解釈

 知恵の完成をひと言で簡単に述べるとすれば、『八千頌般若経』や『般若心経』の解説書から、次ぎのことばが適当であると思います。

 ・空であり、清浄である。

 ・すべての物事の本体と本性を知り尽くしている。と。

  たとえば、『般若心経』によりますと、知恵の完成には六根( 眼・耳・鼻・舌・身・意)、六境(色・声・香・味・触・法 )、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)、四聖諦(苦・集・滅・道)、八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)、五蘊(色・受・想・行・識 )などは、一切が空であると説明されています。

  このように知恵の完成とは本質的に空であり、しかもすべての物事の本体と本性とが知り尽くされている、というのです。

  私はこのことを概念的には、なんとなく分かるような気がします。うまく説明することができませんが、個人的には次のように解釈しています。

  私たち凡人は六根から情報を受け入れ、それを頭脳内で様々なフィルターを通しながら加工処理を施すことによって生活行動を営んでいます。

  ところが菩薩大士は凡人が頭脳内で営むフィルターのような働きは無く、外界の現象ほありのままに正確に捉えて、その場で最も適切な処理をされるのである、と思うのです。 ここでいう頭脳内でのフィルターのような働きとは、いわゆる唯識哲学で説明されている八識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)すべての働きを意味します。

  また、菩薩大士が空であるということについては、次ぎのように考えることができると思います。

 私たちは菩薩大士に出会うことができません。しかし、菩薩大士の教えを受けることはできます。このことが「菩薩大士は存在する」ということを証明していると思います。

 私たちが菩薩大士の教えを受けるということは、私たちの心の中に菩薩大士が存在しているということでもあるのです。このような形で存在する菩薩大士を空であるというのだと思うのです。

 だから菩薩大は増えも減りもしないといわれるのです。空である菩薩大士は私たちが頭脳内で働かせている八識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)のすべてが空であるため、その本質が空である完全なさとりに到達できるのです。

  私たちは心の中(頭脳)から八識を取り除くことガできません。

  しかし私たちは仏教の根本思想である「一切の物事の本質は空であり無相である」ということを納得できます。納得したうえで、私たちは仏や菩薩大士から教えを受けることができるのです。

  私たちは生活のなかで体験する諸問題の解決に当たるときには、このような仏教の根本思想を忘れないように心がけたいものです。

 注 : 相とは 「岩波 仏教辞典」によると次ぎのように説明されています。

 ・ある存在、またはものごとに特有の性質やしるしをいう。

 ・目じるしとなるもの、外面的な特徴をいう。

 ・一般的に、もののすがた、様相をいう。