八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

「八千頌般若経」を読む (30) [空を観察する]

2007-06-21 04:14:37 | Weblog

 二十章 「巧みな手だての考察」・学んで作証せず

  そのとき、スブーティ長老が世尊にこう申しあげた。

 「世尊よ、知恵の完成への道を追求している菩薩大士は、どのようにして空性を熟知し、どのようにして空性の精神集中(空三昧)にはいるべきでしょうか」

 世尊は仰せられた。「スブーティよ、この世で知恵の完成への道を追求する菩薩大士は、物質的存在は空である、と観察せねばならない。

感覚、表象、意欲についてもそうであり、思惟も空である、と観察せねばならない。

けれども、物質的存在は空であるというときのその、ものの本性(法性)を本性という実体としてみなさないように、散乱しない心の流れ(心相続)をもって観察せねばならない。

その、ものの本性を本体としての実在と見ないならば、真実の究極(実際)を直証してしまうこともないであろう」

 こういわれて、スブーティ長老は世尊にこうお尋ねした。

「世尊は『菩薩大士は空性を直証してはならない』と、こう仰せられましたが、世尊よ、その空性の精神集中にはいっている菩薩大士は、どうして空性を直証しないのですか」

 世尊はお答えになった。

 「というのは、スブーティよ、菩薩大士はすべてのすぐれた様相をそなえた空性を観察するのであるが、しかし、『私は直証しよう』と考えて観察するのではない。

『それは直証されねばならない』と考えて観察するのでもない。

そうではなくて、『私は熟知しよう』と観察するのである。

『いまは熟知するときであって、直証するときではない』と考えて観察するのである。

精神が集中されないときには、瞑想の対象に心をしっかりとつなぎ、『私は知恵の完成を会得するであろうが、直証してはいけない』と考える。

その中間において、菩薩大士はさとりの七要素(覚支)を捨てはしないが、かといって煩悩(漏)を滅尽させもしない。

ただそれを熟知するのである。

菩薩大士が、解脱への門戸(解脱門)である、空性の精神集中(空三昧)によって時をすごすときには、菩薩大士は、特徴なきことの精神集中(無相三昧)によっても時をすごさねばならない。

けれども、特徴のないことを直証しはしない。

それはなぜか。というのは、菩薩大ははそれほど堅固に成長した善根の徳をそなえているので、『いまは成就させるときであって、直証するときではない』と観察するのである。

彼は知恵の完成にまもまれていながら、真実の究極を直証しはしない。 以上

(「八千頌般若経Ⅱ」 梶山雄一訳 中公文庫・大乗仏典 3 p169-171)

 私の解釈

 私たちは「空性」を熟知するために何をどのように観察しなければならないのでしょうか。

 教えによると、まず、五蘊(色・受・想・行・識)が空であるということを観察しなければならない、

次に、すべてのすぐれた様相をそなえた空性を観察しなければならない、というのです。

 本文では、色(物質的存在)が空であることについ説明していますが、私は受(感受作用)を取り上げて考えてみることとします。

 私たちは熱いお湯を飲めば熱いと感じ、冷たい水を飲めば冷たいと感じます。

しかし、このような感覚的な感じを味わうのは、それを飲んだ「時」だけです。

その「時」が過ぎれば、熱いとか冷たいとかという感覚は消えてなくなります。

  また、私たちは日常生活の場で、熱いお湯、冷たい水を飲む機会を何度も体験しますが、まったく同じ体験はできません。

飲むときのお湯や水の温度は夫々に違いますし、感覚的な感じ方も時と場合によって違います。

つまり私たちが味わう感覚は、いつも同じであるということはあり得ません。

それは何故かといいますと、熱いお湯や冷たい水は、その本性(法性)を本性という実体として存在していないからです。

つまり、私たちは、このような感受作用、つまり「受」が「空である」ということを観察できるのです。

 このようにして、身近な体験を「散乱しない心の流れ(心相続)」をもって観察しなさい、そうすれば「空性」を熟知することができる、というのです。

 このことを別の仏典では「そこには象の形相があるだけであって、けっして象が実在するのではない」というように説明されています。

  「空性」が熟知できれば、すぐれた様相をそなえた空性を観察することができる、というのです。

私たち凡人は本文の教えによって空性を観察することができます。

さらに、「すべてのすぐれた様相をそなえた空性」を観察するために、私たちは空性の精神集中(空三昧)と特徴なきことの精神集中(無相三昧)を心がけなければなりません。

 日常生活における心がけ次第によって、私たちは、どのような難問に対しても、その「空性」の内部から、すぐれた様相が湧出てくるような心の持ち方を修得できるのです。