第十九章 「ガンガデーヴィー天女」・荒野の菩薩
世尊は仰せられた
「・・・・・・(省略) このように、かの菩薩大士は『先だつ過去の知られない発端は多く、長い』と考えて、さとりを得るのは難事である、という思いを生じてはならない。
その、先だつ過去の知られない発端、つまり、はてなきものは、心の一瞬と結びついているのであるから。
このように、シャーリプトラよ、菩薩大士は、『私は無上にして完全なさとりをさとるのに長いあいだかかるであろう』といって、おそれてはならず、おびえても、恐怖に陥ってもならないのである。
そして、シャーリプトラよ、菩薩大士が上述のような、またその他の、見たり聞いたり考えたり知ったりした、おそれ、おののくべきことをおそれもせず、おびえもせず、恐怖に陥ることもないならば、シャーリプトラよ、こういう良家の男子や女子は無上にして完全なさとりをさとることがてきる、と知られるのである。・・・・・・(省略)」
(「八千頌般若経Ⅱ」 梶山雄一訳 中公文庫・大乗仏典 3 p162)
私の解釈
「先だつ過去の知られない発端は多く長い」ということは簡単にいえば、私たちの頭脳(心)の中に記録されている諸々の事象のことであると考えられます。
初めに、私たちの頭脳(心)のはたらきについて簡単に整理することとします。
私たちの頭脳の中には誕生から現在に到るまでの生活体験の記録だけでなく、両親あるいは、それ以前の先祖代々から受けつがれてきたもの、更には人類始まって以来から永永として受けつがれてきたものを含む無数の因子が記録されていると考えられます。
一方、私たちは、眼・耳・鼻・舌・身・意といういわゆる六根の各器官を通して、外界の対象物と接することにより、その情報を頭脳内に取り込み、思考活動などの生活を営んでいます。
人々はそれぞれに先祖代々からの遺伝を受けて誕生して以来、それぞれの環境の中で生活しているわけです。
生活の中で体験する感情や思考は、当然、人によって様々であり、それぞれに個人差があります。
そこで本文でいう「先だつ過去の知られない発端は多く長い」とは、私たちの頭脳(心)内に、上記のような因子として記録されている諸々の事象のことであると思うのです。
私たちの煩悩とは、このような頭脳(心)内に記録されている事象による心理作用であると考えられます。
私たち凡人はこのような煩悩に覆われた心(頭脳)で対象物を見たり感じたりするため、必然的に、物事にとらわれ、個人的に偏った見方をすることになるのです。
このため、私たちは物事のあるがままの如性というものを見ることができないのです。
ところが無上にして完全なさとりをさとった菩薩大士の方々は煩悩を完全に取り除いているため、物事のありのままの如性を観ることができるというわけです。
親鸞聖人の『正信偈』のなかに 「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我 (煩悩で覆われた眼には見えずといえども、仏は飽きもせず常に我を照らしてくださっている)」ということばがあるそうです。
このことは耳・鼻・舌・身・意についても同じであると思います。
私たちは煩悩に覆われているため物事の真実が見えません。
しかしありがたいことに慈悲深い仏様が、常に私たちを照らしてくださっているのです。
このことは、私たちも思考中にいつかは、一瞬の間だけでも、あたかも煩悩の隙間から物事の真実が光り照らされて見えるというような機会に出会えるかも知れない、という期待感を持たせてくれます。
私は、このような期待感を抱きつつ仏教を学び続けていきたいと思います。
何よりもありがたいことは、私たちが物事について考えること、感じることは真実ではない、あるがままの如性ではない、と私たちに自覚させ、一層の精進と向上心を抱かさせてくれることです。