36 遠離一切顛倒無想
( おんりいっさい てんどう むそう )
これは般若心経で唱えられる言葉です。
言葉の意味
「顛倒」という言葉の意味については、「岩波 仏教辞典」によると次のとおりです。
「常楽我浄」という否定されるべき四種の見解を 〈四顛倒〉 という、すなわち、”無常であるのを常と見、苦であるのに楽と考え、無我であるのに我ありと考え、不浄なものを清浄と見なすこと。” これを「顛倒」という。(常楽我浄の項・p447)
つまり私たちが日常生活の中で抱く普通の考え方や感じ方は、真理とは逆である場合が多い、と仏教では指摘して戒めるのです。
私の解釈
表題の言葉について私は次のように解釈しています。
普通、自分たちが考えたり感じたりする常・楽・我・淨についての見解は、ことごとく思い違いしていることが多い。このような考え方や感じ方を真剣に受けとめることも必要であるが、しかしある程度の時間が経過した後は、できるだけそのことから離れること、少しは関心を持ちつつも、表面的にはそれを無視して、全く別の行動を起こすことである。
そうすれば、いずれ正しい考え方や感じ方が頭脳の中からにじみ出て来るのである。
すなわち、頭脳内では思索活動の営みが無意識的に続けられ、時間が経過してから、自然の流れに従うような形で正しい智慧が導き出されてくる、と思うのである。
(更に、脳科学者の言を参考にして言わせていただけば、人間の頭脳には、概念構成が実行可能なプログラムがあらかじめ組み込まれているコンピューターのような能力がある。
そのプログラムは先祖代々受け継がれて来たものも含めて、生まれてから現在に到るまでの間、人生経験に応じて修正されつつ更新されて来たものである。しかもそれは、今現在も休まずバージョンアップ中である。と私は考えます。)
私の活用法
たとえば 「苦しい、苦しい、このような状態から早く脱け出したいものだ」という嘆きは、これを、落ち着いて良く考えて見れば、実は、将来のために意義あることであり、むしろ積極的に経験を積むべきことであるというような考え方に変わる場合もある。
だから、苦しいとか楽しいとか、常であるとか不常であるとか、我があるとかないとか、不浄であるとか清浄であるとか、というような皮相的な考えにとらわれたり、いつまでも執着したりせずに、一旦それから離れて、時間をかけて、その真理を導き出すことが肝要である。
そのためには、常に「八正道」を心掛けなければならない、と私は考えています。
以上で五月四日から投稿してきました「私の仗言葉 1~36」を終ります。
次回は、「おわり」に当たっての駄文と私が常用している「仗言葉」をいくつか述べる予定です。
( おんりいっさい てんどう むそう )
これは般若心経で唱えられる言葉です。
言葉の意味
「顛倒」という言葉の意味については、「岩波 仏教辞典」によると次のとおりです。
「常楽我浄」という否定されるべき四種の見解を 〈四顛倒〉 という、すなわち、”無常であるのを常と見、苦であるのに楽と考え、無我であるのに我ありと考え、不浄なものを清浄と見なすこと。” これを「顛倒」という。(常楽我浄の項・p447)
つまり私たちが日常生活の中で抱く普通の考え方や感じ方は、真理とは逆である場合が多い、と仏教では指摘して戒めるのです。
私の解釈
表題の言葉について私は次のように解釈しています。
普通、自分たちが考えたり感じたりする常・楽・我・淨についての見解は、ことごとく思い違いしていることが多い。このような考え方や感じ方を真剣に受けとめることも必要であるが、しかしある程度の時間が経過した後は、できるだけそのことから離れること、少しは関心を持ちつつも、表面的にはそれを無視して、全く別の行動を起こすことである。
そうすれば、いずれ正しい考え方や感じ方が頭脳の中からにじみ出て来るのである。
すなわち、頭脳内では思索活動の営みが無意識的に続けられ、時間が経過してから、自然の流れに従うような形で正しい智慧が導き出されてくる、と思うのである。
(更に、脳科学者の言を参考にして言わせていただけば、人間の頭脳には、概念構成が実行可能なプログラムがあらかじめ組み込まれているコンピューターのような能力がある。
そのプログラムは先祖代々受け継がれて来たものも含めて、生まれてから現在に到るまでの間、人生経験に応じて修正されつつ更新されて来たものである。しかもそれは、今現在も休まずバージョンアップ中である。と私は考えます。)
私の活用法
たとえば 「苦しい、苦しい、このような状態から早く脱け出したいものだ」という嘆きは、これを、落ち着いて良く考えて見れば、実は、将来のために意義あることであり、むしろ積極的に経験を積むべきことであるというような考え方に変わる場合もある。
だから、苦しいとか楽しいとか、常であるとか不常であるとか、我があるとかないとか、不浄であるとか清浄であるとか、というような皮相的な考えにとらわれたり、いつまでも執着したりせずに、一旦それから離れて、時間をかけて、その真理を導き出すことが肝要である。
そのためには、常に「八正道」を心掛けなければならない、と私は考えています。
以上で五月四日から投稿してきました「私の仗言葉 1~36」を終ります。
次回は、「おわり」に当たっての駄文と私が常用している「仗言葉」をいくつか述べる予定です。