旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

迫害と信仰の歴史を伝える『大籠キリシタン殉教公園』と伊達政宗軍による大量殺戮の地『首壇』

2018-05-16 22:18:35 | 地域魅力
2018.05.11(金)徳仙丈山を下りて仙台に戻る途中、大籠キリシタン殉教公園と首壇を訪れてきた。
(この日の想定では、他に登米市東和町米川の三経塚キリシタン遺跡、同市登米町の北上川改修地(相模土手)などにも立ち寄ることにしていたが、それはやはり欲張りすぎというものだった。)

これらの地を訪れようとしたことには、昨年が仙台藩祖伊達政宗生誕450年、今年は明治維新(東北人としては戊辰戦争)150年にあたり、自分なりに陰陽の歴史を再認識しておきたいという思いがあったから。

【大籠キリシタン殉教公園】  所在地:岩手県一関市藤沢町大籠字右名坂28-7
江戸時代のはじめ、この大籠(おおかご)の地は、伊達政宗治世下の仙藩領内であった。
支倉常長一行を慶長遣欧使節としてローマに派遣するなどキリスト教に対しては寛容だった仙台藩も、徳川幕府によるキリシタン禁止令を受けて、その排除に傾いていった。
そして大籠では、300人を超す数のキリシタンが迫害により殉教した。
磔(はりつけ)、打首などその仕打ちはむごいものだった。

※大籠キリシタン殉教公園の公式サイト ⇒ こちら


【首壇】 くびだん  所在地:宮城県登米市迫町北方山ノ衛9-2
天正18年(1590年)に発生した葛西、大崎一揆。(この一揆は、伊達政宗の陰謀によるものだったとする説がある。)豊臣秀吉から一揆鎮定を命じられた政宗は、翌天正19年6月に行動を開始した。米沢から奥羽山脈を越えて北上し、大崎家臣団を中心とする一揆勢が立て籠もる小野田(現加美町小野田)、四釜(色麻町)、宮崎(現加美町宮崎)を次々制圧。そして一揆勢の最後の砦となった佐沼城に総攻撃をかけ、陥落させた。ここで政宗は、「一人残らず切って捨てるべし」と徹底した処罰を断行した。首をはねられた数は、武士500余、その他女子供を含め2000余。(迫町史では2783人としている。)
首壇は、政宗軍によってなで斬りにされた人の首を埋めたとされている。



(大籠キリシタン資料館わきから300余段の階段が続く大籠殉教記念クルス館への道)


(十字架を背負わされたイエス・キリストがたどった様子を分かりやすく表示している道のオダマキの花)


(この階段を上ればクルス館へ)




(大籠殉教記念クルス館)
 ※彫刻家の舟越保武氏の設計指導によるもの。内部では、氏の3点の作品とメッセージが展示されている。)




(聖クララ像)


(聖マリア・マグダレナ像)




館の前方には、遠藤周作氏のメッセージ碑も置かれている。



(遠藤周作氏メッセージ碑)


資料館に戻り15分の映像を見て、館内をさっと眺めて次に移動した。
関係する箇所が多いので、近場に限って行ってみた。



(地蔵の辻:この場所で、寛永16~17年に178人が殉教した。)


(首実検石:監視役がこの石に座り、地蔵の辻で行われるキリシタンの処刑を監視したと言われる。)


登米市迫町まで戻り、まずは佐沼城跡へ。
この時時間は、午後4時20分。
登米市立歴史博物館はまもなく閉館する時間だった。





(公園内)


そして少し離れた場所にある首壇に向かった。





(首壇:2500人超(2783人とも言われている)の首が埋められたとされている。)



<追記>
三経塚キリシタン遺跡
仙台藩のキリシタン大弾圧は寛永16年(1639年)から翌年にかけての大籠での処刑で終息したものと考えられていたが、昭和29年に、綱木岩木(城)屋敷で発見された「老聞並びに伝説記」により、享保年間に烔屋で働いていた隠れキリシタン120名が切捨場で処刑されたことが判明。海無沢、西側の朴ノ沢と老ノ沢の3か所に40人ずつお経と共に埋められたということから「三経塚」と呼ばれている。




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