「田にも畑にもしない沼(品井沼)、馬鹿なキツネがかいこん(開墾)と泣く」
そうしたあざけりの声にもめげず、“村の心の豊作は、住民の心の和を肥料としなければならない”との思いのもとに、対立意見の調整に奮闘し、沼干拓に人生をかけた鎌田三之助翁。
なんと素晴らしい人がいたことか!!
これから何回かに分けて、鎌田翁に関することを紹介していきます。

▲広島講演のときの鎌田三之助
鎌田三之助翁については『貞山・北上・東名運河事典』の中でも紹介しています。 ⇒ こちら
鎌田 三之助(かまた さんのすけ)
1863(文久3年)1月13日 ~ 1950年(昭和25年)5月3日
日本の政治家。衆議院議員、宮城県鹿島台村(現在の大崎市)村長。
村長就任期間は10期38年に及ぶ。
この間、品井沼干拓事業や村財政の建て直しに尽力した。
村長在任中、無報酬(旅費を含む)を一貫して通した。
維勤維倹を哲学とし、夏も冬も同じツギハギだらけの粗末な衣服、腰ににぎり飯を下げ、わらじ脚絆で村内はもとより、仙台や東京に行くときも、また高貴な方々との面接にもこれで通し、村民からは「わらじ村長」と呼ばれ親しまれた。
鹿島台には、鎌田の事跡を記念して鎌田記念ホールが建設され、ホール内には記念展示室が設けられている。
1863年(文久3年)
1月13日、陸奥国志田郡木間塚村竹谷(現在の宮城県大崎市鹿島台木間塚)に鎌田三治の次男として生まれる。
生家の鎌田家は、仙台藩士の流れを汲む家で、小作米が900石も入るという大地主の家柄であった。
鎌田家は、祖父の鎌田玄光の代から品井沼の干拓に力を注いできており、父の三治の活動を見て育った。

▲竹谷の鎌田邸
1878年(明治11年) 15歳
幾足かの草鞋(わらじ)を携え、13日かけて東京に出る。
赤坂にあった須田仲(静寛院宮御附の儒者)の漢学館に入る。
次いで、未来の陸軍大将を夢見て駿河台の浩然洞(塾主は三浦観樹将軍の叔父服部有徳)という士官学校の予備校的な塾に学ぶ。
しかし、士官学校には合格できなかった。
そこで軍人の次に憧れであった政治家になることを志し、
当時麹町にあった明治法律専門学校(現在の明治大学法学部)に入学。

▲学生時代
1883年(明治16年) 21歳
明治法律専門学校を卒業。
その後、郷里に戻り、父を助け品井沼の干拓に取り組む。
1884年(明治17年) 22歳
天然痘が流行したのを憂慮し、痘苗を購入し、一切の費用を自弁して村民に接種させる。
1885年(明治18年) 23歳
木間塚に青年教育の場として大成館を設立し夜学で教える。
1886年(明治19年) 24歳
村に開業医がいないことを憂えて、栃木県人の大越寿草を木間塚に招き、薬品、医療器具一切を与えて開業させ、その費用の総てを自分で負担した。
1889年(明治22年) 27歳
新村鹿島台の村会に土木勧業委員として当選。
1894年(明治27年) 31歳
志田郡会議員に、次いで宮城県議会議員に立候補し、最年少で当選。
1902年(明治35年) 39歳
第7回衆議院議員総選挙に立候補し当選、2期務める。

▲代議士時代
1904年(明治37年) 42歳
総選挙で落選。
1906年(明治39年) 44歳
移民事業を起こし、11月10日同士の村民24名を伴い東洋汽船の満州丸で横浜を出港し、メキシコに渡る(出港53日目の12月17日にメキシコマンサニョ港に到着)。
品井沼排水工事をめぐり工事推進派と中止派に住民を二分する対立が起き、宮城県知事亀井英三郎から、事態収拾のための帰国を求める電報を受け取る。
田畑約6ヘクタールを木間塚に無償で寄付。
1907年(明治40年) 鹿島台村長選により武田親長が村長に就任(1年4カ月辞任)
1908年(明治41年) 45歳
10月13日午後3時40分、東宮殿下(後の大正天皇)台覧。(三之助が奔走し実現。場所:新潜穴下流の東北本線上)

▲東宮殿下台覧
1909年(明治42年) 46歳
村人の強い要請に答え、村長選に立ち、就任。
まず村民の意識を改め協力を求めることが必要と考え、就任翌日の3月14日に、毎戸から一人ひとり集めて、村建て直しの決意と構想を披露する。
1910年(明治43年) 48歳
「借りがある思えば肩身が狭かろう。それでは真の一致協力ができまい。」と考え、鎌田家からの借りのある村民を集め、借用証文すべてを与えている。
『明治42年事務報告(注1)』を公表。
12月26日松島町幡谷字中谷地地内の松葉山で、明治潜穴通水式が挙行。
その感激を漢詩(注2)に託す。
魚鼈蚊龍何処辺
蒼波萬傾尽稲田
若教世道如人意
豈費経綸三百年
1946年(昭和21年) 83歳
公職追放(注3)となり、村長を辞任。
1950年(昭和25年) 88歳
5月3日死去。葬送の列は延々と数丁に及び、沿道の各戸は門前に茶や花を供え、香を焚いて見送った。

▲葬送の列
注1) 明治42年事務報告 ⇒ 別紙参照(作成中)。
注2) 鎌田三之助の漢詩
魚鼈蛟龍何処辺(ぎょべつこうりゅういずこのへん)
蒼波萬傾尽稲田(そうはばんけいことごとくいなだとなる)
若教世道如人意(もしおしえせいどうじんいのごとくんば)
豈費経綸三百年(あにけいりんさんびゃくねんをついやさん)
魚やスッポンや伝説の蛟龍(みずち)は品井沼のどこに見られるだろうか
今や見渡す限り青い波打つ稲田となる
もし世の中の事柄が人の意のままになるのならば
どうして三百年の苦心を費やすことがあろうか
注3) 公職追放 ⇒ 公共性のある職務に特定の人物が従事するのを禁止すること。
日本では、戦後の民主化政策の一つとして、1946年1月GHQの覚書に基づき、議員・公務員その他政界・財界・言論界の指導的地位から軍国主義者・国家主義者などを約20万人追放。
52年4月対日講和条約発効とともに廃止、消滅。 (出典:広辞苑)
(出典)
『鹿島台町史』 鹿島台町史編さん委員会(鹿島台町)
『鎌田三之助翁伝』 故鎌田三之助翁頌徳会編
『宮城県の百年』 宮城県企画部
※ 『わらじ村長 鎌田三之助~われ村の模範とならん』は ⇒ こちら
※ 鎌田三之助翁と品井沼干拓に関する詳細は
⇒『不撓不屈 品井沼干拓300年-元禄潜穴・明治潜穴・わらじ村長鎌田三之助-』(PDF)をご覧ください。
そうしたあざけりの声にもめげず、“村の心の豊作は、住民の心の和を肥料としなければならない”との思いのもとに、対立意見の調整に奮闘し、沼干拓に人生をかけた鎌田三之助翁。
なんと素晴らしい人がいたことか!!
これから何回かに分けて、鎌田翁に関することを紹介していきます。

▲広島講演のときの鎌田三之助
鎌田三之助翁については『貞山・北上・東名運河事典』の中でも紹介しています。 ⇒ こちら
鎌田 三之助(かまた さんのすけ)
1863(文久3年)1月13日 ~ 1950年(昭和25年)5月3日
日本の政治家。衆議院議員、宮城県鹿島台村(現在の大崎市)村長。
村長就任期間は10期38年に及ぶ。
この間、品井沼干拓事業や村財政の建て直しに尽力した。
村長在任中、無報酬(旅費を含む)を一貫して通した。
維勤維倹を哲学とし、夏も冬も同じツギハギだらけの粗末な衣服、腰ににぎり飯を下げ、わらじ脚絆で村内はもとより、仙台や東京に行くときも、また高貴な方々との面接にもこれで通し、村民からは「わらじ村長」と呼ばれ親しまれた。
鹿島台には、鎌田の事跡を記念して鎌田記念ホールが建設され、ホール内には記念展示室が設けられている。
1863年(文久3年)
1月13日、陸奥国志田郡木間塚村竹谷(現在の宮城県大崎市鹿島台木間塚)に鎌田三治の次男として生まれる。
生家の鎌田家は、仙台藩士の流れを汲む家で、小作米が900石も入るという大地主の家柄であった。
鎌田家は、祖父の鎌田玄光の代から品井沼の干拓に力を注いできており、父の三治の活動を見て育った。

▲竹谷の鎌田邸
1878年(明治11年) 15歳
幾足かの草鞋(わらじ)を携え、13日かけて東京に出る。
赤坂にあった須田仲(静寛院宮御附の儒者)の漢学館に入る。
次いで、未来の陸軍大将を夢見て駿河台の浩然洞(塾主は三浦観樹将軍の叔父服部有徳)という士官学校の予備校的な塾に学ぶ。
しかし、士官学校には合格できなかった。
そこで軍人の次に憧れであった政治家になることを志し、
当時麹町にあった明治法律専門学校(現在の明治大学法学部)に入学。

▲学生時代
1883年(明治16年) 21歳
明治法律専門学校を卒業。
その後、郷里に戻り、父を助け品井沼の干拓に取り組む。
1884年(明治17年) 22歳
天然痘が流行したのを憂慮し、痘苗を購入し、一切の費用を自弁して村民に接種させる。
1885年(明治18年) 23歳
木間塚に青年教育の場として大成館を設立し夜学で教える。
1886年(明治19年) 24歳
村に開業医がいないことを憂えて、栃木県人の大越寿草を木間塚に招き、薬品、医療器具一切を与えて開業させ、その費用の総てを自分で負担した。
1889年(明治22年) 27歳
新村鹿島台の村会に土木勧業委員として当選。
1894年(明治27年) 31歳
志田郡会議員に、次いで宮城県議会議員に立候補し、最年少で当選。
1902年(明治35年) 39歳
第7回衆議院議員総選挙に立候補し当選、2期務める。

▲代議士時代
1904年(明治37年) 42歳
総選挙で落選。
1906年(明治39年) 44歳
移民事業を起こし、11月10日同士の村民24名を伴い東洋汽船の満州丸で横浜を出港し、メキシコに渡る(出港53日目の12月17日にメキシコマンサニョ港に到着)。
品井沼排水工事をめぐり工事推進派と中止派に住民を二分する対立が起き、宮城県知事亀井英三郎から、事態収拾のための帰国を求める電報を受け取る。
田畑約6ヘクタールを木間塚に無償で寄付。
1907年(明治40年) 鹿島台村長選により武田親長が村長に就任(1年4カ月辞任)
1908年(明治41年) 45歳
10月13日午後3時40分、東宮殿下(後の大正天皇)台覧。(三之助が奔走し実現。場所:新潜穴下流の東北本線上)

▲東宮殿下台覧
1909年(明治42年) 46歳
村人の強い要請に答え、村長選に立ち、就任。
まず村民の意識を改め協力を求めることが必要と考え、就任翌日の3月14日に、毎戸から一人ひとり集めて、村建て直しの決意と構想を披露する。
1910年(明治43年) 48歳
「借りがある思えば肩身が狭かろう。それでは真の一致協力ができまい。」と考え、鎌田家からの借りのある村民を集め、借用証文すべてを与えている。
『明治42年事務報告(注1)』を公表。
12月26日松島町幡谷字中谷地地内の松葉山で、明治潜穴通水式が挙行。
その感激を漢詩(注2)に託す。
魚鼈蚊龍何処辺
蒼波萬傾尽稲田
若教世道如人意
豈費経綸三百年
1946年(昭和21年) 83歳
公職追放(注3)となり、村長を辞任。
1950年(昭和25年) 88歳
5月3日死去。葬送の列は延々と数丁に及び、沿道の各戸は門前に茶や花を供え、香を焚いて見送った。

▲葬送の列
注1) 明治42年事務報告 ⇒ 別紙参照(作成中)。
注2) 鎌田三之助の漢詩
魚鼈蛟龍何処辺(ぎょべつこうりゅういずこのへん)
蒼波萬傾尽稲田(そうはばんけいことごとくいなだとなる)
若教世道如人意(もしおしえせいどうじんいのごとくんば)
豈費経綸三百年(あにけいりんさんびゃくねんをついやさん)
魚やスッポンや伝説の蛟龍(みずち)は品井沼のどこに見られるだろうか
今や見渡す限り青い波打つ稲田となる
もし世の中の事柄が人の意のままになるのならば
どうして三百年の苦心を費やすことがあろうか
注3) 公職追放 ⇒ 公共性のある職務に特定の人物が従事するのを禁止すること。
日本では、戦後の民主化政策の一つとして、1946年1月GHQの覚書に基づき、議員・公務員その他政界・財界・言論界の指導的地位から軍国主義者・国家主義者などを約20万人追放。
52年4月対日講和条約発効とともに廃止、消滅。 (出典:広辞苑)
(出典)
『鹿島台町史』 鹿島台町史編さん委員会(鹿島台町)
『鎌田三之助翁伝』 故鎌田三之助翁頌徳会編
『宮城県の百年』 宮城県企画部
※ 『わらじ村長 鎌田三之助~われ村の模範とならん』は ⇒ こちら
※ 鎌田三之助翁と品井沼干拓に関する詳細は
⇒『不撓不屈 品井沼干拓300年-元禄潜穴・明治潜穴・わらじ村長鎌田三之助-』(PDF)をご覧ください。
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