旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

野蒜築港跡~北上運河~東名運河~奥松島(宮戸島)

2014-01-04 23:06:25 | 水の道逍遥
東日本大震災後、東松島市の被災地でボランティア活動をしてきた東京に住む長女が、行ってみたいと言う。
当方としても、最近行っていなかったのでどのような様子になっているか気にかかっていた。

そこで今日は、二人で野蒜築港跡~北上運河~東名運河~奥松島(宮戸島)と廻って来た。

最初は野蒜築港跡に。




▲レンガ橋台(上の橋)


浜市のあのとても趣と歴史を感じさせる松の木は、無残な姿になっていた。
すぐわきの黒澤敬徳顕彰の紀功之碑は、もとの位置に復元されているものの、荒涼とした風景の中にあった。





(2010.05.09撮影)


▲紀功之碑と石ローラー


野蒜築港跡の石碑があった場所は、堤防嵩上げ工事によって跡形もない。
浜市漁港周辺は、真新しい護岸が築かれ、以前の面影をまるで留めていない。



▲野蒜築港跡の碑のあった場所で行われている工事


▲野蒜築港跡の碑(2007.08.16撮影)


▲鳴瀬川側で行われている護岸工事と堤防嵩上げ工事


▲浜市漁港のある場所


▲浜市漁港と北上運河(2010.05.09撮影)


▲浜市漁港と北上運河(2010.12.04撮影)


新鳴瀬川と北上運河の交わる地点にあるレンガ橋台(下の橋)周辺は、伐採され、これまた寒風吹きすさぶ。
対岸の橋台の2つは流失。
そこに土嚢が2つ置かれていた。
そしてその周辺は、轟音をたてて走り回るモトクロスの練習場と化していた。



▲レンガ橋台(下の橋)


▲レンガ橋台(下の橋:2007.10.23矢本海浜緑地公園側から撮影)


野蒜築港資料室は解体撤去。
近くには、7.87mの津波到達の標識が立てられてた。



▲野蒜築港資料室があった場所


野蒜海岸の景勝「余景の松原」は、木一本も無く、広大な荒地となっている。


奥松島(宮戸島)の大浜、月浜では地盤の嵩上げ工事が進められているものの、住宅再建までにはまだまだ遠い道のりと思えた。



▲宮戸島大浜の集落があった場所


▲大浜


▲大浜:ご夫婦が貝殻拾いをしていた


▲月浜


▲月浜の五十鈴神社:『えんずのわり』(宮城県無形民俗文化財)はここの岩屋に籠ることから始まって行われる正月行事。


松並木の美しい景観を有していた東名運河も、今は無い。
冬枯れの景色がそうさせるのか、水面のコガモの群れが郷愁を誘う。



▲東名運河(JR野蒜駅前)


▲東名運河(JR野蒜駅前)


▲東名運河(2007.08.16撮影)


▲JR野蒜駅


▲JR野蒜駅


▲東名水門側からの眺望


▲寄ってきた白鳥


▲東名水門(一輪のキクの花が寒風にさらされていた)


▲土砂搬送用ベルトコンベア
(JR仙石線の内陸側移設と住宅の高台移転用地造成で出る土砂を野蒜海岸まで搬送。長さ1.2km)



災害復旧はやむを得ない。
その一方で、100年後の人々が評価してくれる復旧の仕方だろうかと、懸念もする。
野蒜築港は明治11年(1878年)着工、北上運河:明治11~14年(1878~1881)、東名運河:明治16~17年(1883~1884)。
現代まで維持されてきたその歴史を思うと、そんな気持ちがわいてくる。
せめて、かつての状況を後世に伝えることができるよう、しっかりとした記録を残して欲しいものだと切に願っている。



▲今日廻ったコース



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