つづきです。
第八號 古川町
外題
「末森城の合戦 利家の急襲」
解 説
天正12年 佐々成政の軍勢3千は越前城主 前田利家の能登における拠点である末森城へ攻め入った。
末森城代奥村は三百余名の兵力で籠城。落城寸前になりながらも前田の軍勢を待った。
前田軍二万五千の部隊が佐々軍を背後から急襲した。
それに奮起し城に残った兵力も撃って出た為、佐々軍は狭撃される形となり撤退した。
見返し
「橋下で すくわれかける 野田のどじょう」
第拾號 旭町二区
外題
「馬上一閃 毘沙門天の乱舞」
解 説
永禄四年、北条氏政は三万五千を率いて佐野昌綱の唐沢山城を包囲する。援軍の要請を受けた長尾景虎は八千余騎で駆けつける。
景虎は甲冑をつけず黒木綿の道服に白絹の頭巾姿で、黒馬にまたがり十文字槍を手に、敵の囲みの中へ掛け入る。
荒れ狂う姿は毘沙門天のようであり北条勢は聞きしに勝る勇網ぶりに撤退し敗北となる。
見返し
「有料化 あわてでなげだ ゴミ亭主」 優秀賞
第拾壱號 旭町三区
外題
「笹の才蔵 富嶽に煌く 十文字槍」
解 説
可児才蔵は斎藤龍興を皮切りに明智光秀・柴田勝家など八名の主君に仕えその武勇を賞賛された。
天正十八年の小田原征伐には最後の主君福島正則の先陣として出陣す。
宝蔵院流槍術に優れ十文字槍を縦横無尽にふるい奮闘、韮山城代北条氏規はその剛勇に感嘆の声をあげた。
挙げた首級に笹の葉を咥えさしたことから笹の才蔵とも呼ばれる。
見返し
「節電で 早寝子づくり 再稼動」
第拾弐號 旭町一区
外題
「豪槍凌駕 二天の剣術」
解 説
慶長九年、宮本武蔵は己の剣術を試すべく槍で天下に名高い奈良・興福寺宝蔵院を訪れる。
院主の胤栄は「此処は僧院、殺生は許さぬ」と釘を刺し、弟子の奥蔵院道栄との手合せを許す。
武蔵は木刀、道栄は稽古槍を用いての激しい攻防の中、武蔵は一瞬の隙を突き一気に間合いを詰め、
振り上げた木刀を道栄の頭上で寸止めし見事勝利を収め、剣術に更なる磨きを掛けた。
見返し
「天空の 武蔵(634)に負けぬ 武者人形」 優秀賞
第拾参號 本山町
外題
「翼虎相剋を制す 勢多の猛撃」
解 説
天武天皇元年七月二十二日、大海人皇子の軍勢は勢多の戦いに進撃した。
対する大友皇子の近江朝廷軍は、武将智尊が橋に秘策を施し待ち受けていた。
智尊の策に多くの兵を失う中、舎人大分君稚臣は降り注ぐ矢を物ともせず敵陣に切り込み智尊らを倒した。
近江方が大敗すると、翌日大友皇子は自決し、ここに壬申の乱は決した。
見返し
「風そよぐ すだれ頭は エコ頭(脱減髪)」
第拾五號 清水町三区
外題
「龍神急襲 飛鳥の夜明け」
解 説
西暦六四五年(一三六七年前)、大臣の蘇我入鹿が政界を牛耳り、
その増長ぶりに天皇の息子、中大兄皇子は危機感を抱き、打倒、蘇我氏の策を考えていた。
朝鮮三国からの貢物献上の儀式の際、入鹿は女帝を人質にし、抵抗した。
その時突然、雷鳴が轟き、背中に請安を乗せた龍が現れ、気を取られた入鹿は命を落とす。
これが「己巴の変」と呼ばれ、それ以降、中大兄皇子らは律令制度など、中央集権国家へと改革を勧めた。これが世に言う「大化の改新」である。
見返し
「増税に 負けじと港の 音頭上げ」
つづきはこちら
当方HP↓(写真の人形と関係ございません)
第八號 古川町
外題
「末森城の合戦 利家の急襲」
解 説
天正12年 佐々成政の軍勢3千は越前城主 前田利家の能登における拠点である末森城へ攻め入った。
末森城代奥村は三百余名の兵力で籠城。落城寸前になりながらも前田の軍勢を待った。
前田軍二万五千の部隊が佐々軍を背後から急襲した。
それに奮起し城に残った兵力も撃って出た為、佐々軍は狭撃される形となり撤退した。
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「橋下で すくわれかける 野田のどじょう」
第拾號 旭町二区
外題
「馬上一閃 毘沙門天の乱舞」
解 説
永禄四年、北条氏政は三万五千を率いて佐野昌綱の唐沢山城を包囲する。援軍の要請を受けた長尾景虎は八千余騎で駆けつける。
景虎は甲冑をつけず黒木綿の道服に白絹の頭巾姿で、黒馬にまたがり十文字槍を手に、敵の囲みの中へ掛け入る。
荒れ狂う姿は毘沙門天のようであり北条勢は聞きしに勝る勇網ぶりに撤退し敗北となる。
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「有料化 あわてでなげだ ゴミ亭主」 優秀賞
第拾壱號 旭町三区
外題
「笹の才蔵 富嶽に煌く 十文字槍」
解 説
可児才蔵は斎藤龍興を皮切りに明智光秀・柴田勝家など八名の主君に仕えその武勇を賞賛された。
天正十八年の小田原征伐には最後の主君福島正則の先陣として出陣す。
宝蔵院流槍術に優れ十文字槍を縦横無尽にふるい奮闘、韮山城代北条氏規はその剛勇に感嘆の声をあげた。
挙げた首級に笹の葉を咥えさしたことから笹の才蔵とも呼ばれる。
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「節電で 早寝子づくり 再稼動」
第拾弐號 旭町一区
外題
「豪槍凌駕 二天の剣術」
解 説
慶長九年、宮本武蔵は己の剣術を試すべく槍で天下に名高い奈良・興福寺宝蔵院を訪れる。
院主の胤栄は「此処は僧院、殺生は許さぬ」と釘を刺し、弟子の奥蔵院道栄との手合せを許す。
武蔵は木刀、道栄は稽古槍を用いての激しい攻防の中、武蔵は一瞬の隙を突き一気に間合いを詰め、
振り上げた木刀を道栄の頭上で寸止めし見事勝利を収め、剣術に更なる磨きを掛けた。
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「天空の 武蔵(634)に負けぬ 武者人形」 優秀賞
第拾参號 本山町
外題
「翼虎相剋を制す 勢多の猛撃」
解 説
天武天皇元年七月二十二日、大海人皇子の軍勢は勢多の戦いに進撃した。
対する大友皇子の近江朝廷軍は、武将智尊が橋に秘策を施し待ち受けていた。
智尊の策に多くの兵を失う中、舎人大分君稚臣は降り注ぐ矢を物ともせず敵陣に切り込み智尊らを倒した。
近江方が大敗すると、翌日大友皇子は自決し、ここに壬申の乱は決した。
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「風そよぐ すだれ頭は エコ頭(脱減髪)」
第拾五號 清水町三区
外題
「龍神急襲 飛鳥の夜明け」
解 説
西暦六四五年(一三六七年前)、大臣の蘇我入鹿が政界を牛耳り、
その増長ぶりに天皇の息子、中大兄皇子は危機感を抱き、打倒、蘇我氏の策を考えていた。
朝鮮三国からの貢物献上の儀式の際、入鹿は女帝を人質にし、抵抗した。
その時突然、雷鳴が轟き、背中に請安を乗せた龍が現れ、気を取られた入鹿は命を落とす。
これが「己巴の変」と呼ばれ、それ以降、中大兄皇子らは律令制度など、中央集権国家へと改革を勧めた。これが世に言う「大化の改新」である。
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「増税に 負けじと港の 音頭上げ」
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