制作好房

初志貫徹 ~志無くして進歩なし

平成24年奉納曳山(第弐拾参號 若松町 ~ 第参拾號 幕洗川三区)

2012年07月31日 22時11分01秒 | 土崎港曳山祭り
つづきです。

第弐拾参號 若松町
外題
「名こそ惜しけれ 耳朶(じだ)の名木(なき)札(ふだ)」
解 説
 「魚津城の合戦」戦国の義将上杉謙信の後継景勝は、北陸など三方から織田信長に攻められる。
越中魚津城を守る中条景泰ら十二将は八十日間猛攻に耐えたが、天下に鳴り響いた上杉武士の名を残すため
自らの名を書いた木札を耳たぶにくくりつけ、壮烈な自刃を遂げる。
籠城戦の最中に信長は本能寺に倒れ、上杉は危機を脱する。

見返し
「夫婦岩 これがおらほの スカイツリー」



第弐拾五號 港北町
外題
「城主実(さね)季(すえ)初陣 難行苦闘 反旗一掃」
解 説
 天正十六年(一五八八)湊城主安東実季が同族道季、角館戸沢等の反旗により「湊合戦」が勃発。
敵勢力は一〇倍の兵、味方わずか鉄砲三〇〇挺で応戦、大苦戦し湊城・脇本城を退走。安東家ゆかりの堅固桧山城一五〇日籠城。
この時、矢島豪勇満安の応援を得て、鉄棒にも劣らぬ槍を振り回して、道季らの連合兵をなぎ倒した。
湊合戦の初陣勝利安東実季は、本格的に政治軍事の拠点として、土崎湊城下町の整備・繁栄をしたのである。

見返し
「止まったら 容易に動けぬ 曳山車(やま)と原発(げんぱつ)」



第弐拾六號 愛宕町
外題
「天下を窺う 稀代の策士」
解 説
 関ヶ原合戦時、如水は西軍が敗れるも戦が長引くと読み、まずは徳川方東軍として九州討伐に乗り出す。
大友義統から攻撃を受けている杵築城の救援要請に応え加勢。黒田八虎の一人、母里太兵衛も苦戦の末、大友方を撃破。
しかし、西軍が一日で敗戦したため、九州平定後に徳川家康と雌雄を決しようとした如水の野望は、儚く潰えた。

見返し
「スカイツリー 負けぬと増税 天を突く」



第弐拾七號 幕洗川一区
外題
「内裏(だいり)炎上(えんじょう) 憤怒(ふんぬ)の雷電(らいでん)」
解 説
 『北野天神縁起絵巻』によれば、延長八年六月二十六日に愛宕山上空から広がった黒雲が平安京を覆い尽くして雷雨となり、
内裏清涼殿に落雷して公卿等数名が巻き込まれる事故があった。
大納言藤原清貫は雷に打たれて即死、右中弁平希世は雷神に蹴り殺されたと言う。時の醍醐天皇も大惨事を目撃して直後に発病した。
かつて清貫らは、左大臣藤原時平の讒言を受けた醍醐天皇によって右大臣菅原道真が大宰権帥に降格され
大宰府に左遷された昌泰の変に加担しており、非業の死を遂げた道真の怨霊が雷神と化して復讐を果たしたのだという伝説が生まれた。
この後、怨霊を畏れた人々によって道真を祀る北野天満宮が創建され、
朝廷はその怒りを鎮めようと道真の左遷を撤回して正一位太政大臣を贈位した。

見返し
「受け入れて がれき((枯れ木))に花を 咲かせましょう」



第弐拾八號 南幕洗川
外題
「閃光轟大飛剣 驚愕武田勢」
解 説
 天正五年、武田勝頼は大軍を率い北条氏の伊豆へ侵攻を企て、両軍は黄瀬川にて対峙した。
風魔一党は激流を巧みに渡り武田勢へ毎夜、夜襲をかけた。
馬に藁人形を乗せ陣へ追い込み驚かせ、またかと思った時に夜討ちをかけ撹乱させた。
乱波の大将風魔の活躍により「恨めしい風魔の忍びよ・・・」と武田軍は詠じ嘆き退いた。

見返し
「祭典(五輪)の 絆綱(きずな)を伝える 電波塔」



第参拾號 幕洗川三区
外題
「逆襲の独眼竜 南奥州を制す」
解 説
 合戦は猪苗代湖の北岸、磐梯山の裾野である摺上原で行われた。
開戦当初は蘆名軍が有利に戦っていたが風向きが東風に変わると伊達軍が圧倒し始め、
蘆名軍は総崩れとなり敗走する蘆名軍は日橋川によって黒川城への帰還を妨げられ被害が拡大、
蘆名義広は実家である佐竹氏を頼って常盤国へ敗走、正宗は南奥州の覇者となった。

見返し
「高さより 絆じゃ負けぬ 夫婦岩」



以上、全町内分です。
ようやく終わったー!雲板さん、助かりました。
回顧はまた後日でも。
※ 港北町さんの表の写真正面から撮ってる写真あったらください。。

当方HP↓(写真の人形と関係ございません)

平成24年奉納曳山(第拾六號 幕洗川二区 ~ 第弐拾弐號 将軍野四区)

2012年07月31日 21時01分02秒 | 土崎港曳山祭り
つづきです。

第拾六號 幕洗川二区
外題
「天見据え 蹶起鼓舞す 又左の長槍」
解 説
 戦国乱世、前田又左衛門利家は織田信長の天下取りに仕えた。
槍術に長けた若武者は幾多の戦で武勲を挙げ、「槍の又左」と名を馳せた。
一五六一年織田軍の美濃斎藤龍興攻めに、実弟藤八郎と参陣、
森部の戦で美濃国一の豪傑者「頸取足立」と恐れられていた足立六兵衛を、三間半柄の十字槍で仕留めた。

見返し
「天空へ 復興祈願の 電波塔(スカイツリー)」



第拾七號 将軍野二区
外題
「忠臣楠子 はためく菊水」
解 説
 建武三年、後醍醐天皇より菊紋を賜った楠木正成と反旗を翻した足利尊氏。両雄は湊川を決戦の地とした。
足利軍直義三万余、対する正成軍僅か七百。激闘の末、正成は最期の時を迎える。
後に尊氏は「誠に賢才武略な勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまんぞなかりける」と忠臣正成を惜しんだのである。

見返し
「市長さん!! ゴミ有料化で パンダ誘致は優良か?」



第拾八號 将軍野三区
外題
「豪槍断ち切る 鬼の一閃」
解 説
 慶長20年(1615年)5月6日、大阪夏の陣片倉小十郎重綱は病床の父景綱に代わり、一千の軍勢を率いて伊達家の先鋒を務める。
大阪道明寺口に集結した片倉隊は、攻め寄った大阪方の後藤又兵衛勢を迎え撃ち、これを撃破。
この日片倉隊は九十を超える兜首を揚げ、重綱自身も四騎を討ち取る。
これにより重綱の武功は天下に轟き、父に劣らぬ知勇兼備の名将として『鬼の小十郎』と称された。

見返し
「復興(みらい)への 光に影さす 原子力」



第弐拾號 将軍野一区
外題
「巨星が放つ 三方ヶ原 最後の攻防」
解 説
 元亀三年(1,572年)悲願の上洛を果たすべく、信玄甲府をあとにした。目指すは念願の京都へ。
上洛の道筋、浜松城主家康それを拒み、三方ヶ原に鶴翼の陣形を形成する。
合戦と成るや、武田軍の先陣小山田信茂の飛礫隊が得意の投石を始めた。後、無敵の騎馬軍団が怒涛の突撃をして撃破。
だが、途中巨星が墜ち、京都は遠かった。

見返し
「反原発 民主に頼るも ダメな野田(ノダ) 」



第弐拾壱號 鉄道社宅
外題
「鎧袖一触 伊達者の撫斬」
解 説
 天正13年(1585年)、伊達政宗は大内定綱攻撃のため、小手森城へ総攻撃をかけ、その日のうちに落城させた。
このとき、正宗は城主・菊池顕綱をはじめとする敵将や敵兵だけでなく、城内にいた女や子供さらには、
牛や馬に至るまで全て撫で斬りにし、「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれることとなった。

見返し
「ロンドンで メダルをねらう 湊っ娘」 最優秀賞



第弐拾弐號 将軍野四区
外題
「忠義貫く 紅蓮の魂」
解 説
 天正十年六月二日早暁、明智光秀の軍一万五千の兵が、主君織田信長の寝床、本能寺を取り囲んだ。
宿泊していた信長主従総勢わずか百名足らず、家来たちは寝巻き姿で懸命に主を守って戦う。
勝ち目の無いところを最後まで戦い抜いた家来たちは後世【忠義の鑑】とたたえられ、中でも小姓の森成利(蘭丸)の奮戦が有名になった。

見返し
「ごみ有料 せめて祭りの 後にして」



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当方HP↓(写真の人形と関係ございません)

平成24年奉納曳山(第八號 古川町 ~ 第拾五號 清水町三区)

2012年07月31日 20時15分51秒 | 土崎港曳山祭り
つづきです。

第八號 古川町
外題
「末森城の合戦 利家の急襲」
解 説
 天正12年 佐々成政の軍勢3千は越前城主 前田利家の能登における拠点である末森城へ攻め入った。
末森城代奥村は三百余名の兵力で籠城。落城寸前になりながらも前田の軍勢を待った。
前田軍二万五千の部隊が佐々軍を背後から急襲した。
それに奮起し城に残った兵力も撃って出た為、佐々軍は狭撃される形となり撤退した。

見返し
「橋下で すくわれかける 野田のどじょう」



第拾號 旭町二区
外題
「馬上一閃 毘沙門天の乱舞」
解 説
 永禄四年、北条氏政は三万五千を率いて佐野昌綱の唐沢山城を包囲する。援軍の要請を受けた長尾景虎は八千余騎で駆けつける。
景虎は甲冑をつけず黒木綿の道服に白絹の頭巾姿で、黒馬にまたがり十文字槍を手に、敵の囲みの中へ掛け入る。
荒れ狂う姿は毘沙門天のようであり北条勢は聞きしに勝る勇網ぶりに撤退し敗北となる。

見返し
「有料化 あわてでなげだ ゴミ亭主」 優秀賞



第拾壱號 旭町三区
外題
「笹の才蔵 富嶽に煌く 十文字槍」
解 説
 可児才蔵は斎藤龍興を皮切りに明智光秀・柴田勝家など八名の主君に仕えその武勇を賞賛された。
天正十八年の小田原征伐には最後の主君福島正則の先陣として出陣す。
宝蔵院流槍術に優れ十文字槍を縦横無尽にふるい奮闘、韮山城代北条氏規はその剛勇に感嘆の声をあげた。
挙げた首級に笹の葉を咥えさしたことから笹の才蔵とも呼ばれる。

見返し
「節電で 早寝子づくり 再稼動」



第拾弐號 旭町一区
外題
「豪槍凌駕 二天の剣術」
解 説
 慶長九年、宮本武蔵は己の剣術を試すべく槍で天下に名高い奈良・興福寺宝蔵院を訪れる。
院主の胤栄は「此処は僧院、殺生は許さぬ」と釘を刺し、弟子の奥蔵院道栄との手合せを許す。
武蔵は木刀、道栄は稽古槍を用いての激しい攻防の中、武蔵は一瞬の隙を突き一気に間合いを詰め、
振り上げた木刀を道栄の頭上で寸止めし見事勝利を収め、剣術に更なる磨きを掛けた。

見返し
「天空の 武蔵(634)に負けぬ 武者人形」 優秀賞



第拾参號 本山町
外題
「翼虎相剋を制す 勢多の猛撃」
解 説
 天武天皇元年七月二十二日、大海人皇子の軍勢は勢多の戦いに進撃した。
対する大友皇子の近江朝廷軍は、武将智尊が橋に秘策を施し待ち受けていた。
智尊の策に多くの兵を失う中、舎人大分君稚臣は降り注ぐ矢を物ともせず敵陣に切り込み智尊らを倒した。
近江方が大敗すると、翌日大友皇子は自決し、ここに壬申の乱は決した。

見返し
「風そよぐ すだれ頭は エコ頭(脱減髪)」



第拾五號 清水町三区
外題
「龍神急襲 飛鳥の夜明け」
解 説
 西暦六四五年(一三六七年前)、大臣の蘇我入鹿が政界を牛耳り、
その増長ぶりに天皇の息子、中大兄皇子は危機感を抱き、打倒、蘇我氏の策を考えていた。
朝鮮三国からの貢物献上の儀式の際、入鹿は女帝を人質にし、抵抗した。
その時突然、雷鳴が轟き、背中に請安を乗せた龍が現れ、気を取られた入鹿は命を落とす。
これが「己巴の変」と呼ばれ、それ以降、中大兄皇子らは律令制度など、中央集権国家へと改革を勧めた。これが世に言う「大化の改新」である。

見返し
「増税に 負けじと港の 音頭上げ」



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平成24年奉納曳山(第壱號 相染町 ~ 第七號 統前 肴町)

2012年07月30日 22時39分09秒 | 土崎港曳山祭り
平成24年奉納曳山(第壱號 相染町 ~ 第七號 統前肴町)です。
※ 何回かに分けてアップします。(雲板さん、外題集コピペさせて貰いました。すみません。)

第壱號 相染町
外題
「隻眼政宗 烈風怒涛の摺上原」
解 説
 天正十七年六月、南奥州の覇権をかけ伊達と蘆名との戦いが摺上原で始まった。
初めは風上の理を活かし蘆名軍が優位に立ったが、砂塵が霧の如くして前後も見分けざる有様、
風に翻弄された戦いは、最後風上に立った伊達軍が優位となる。
敗走する蘆名軍は、日橋川にかかる橋を落とされ退路が閉ざされていた。伊達軍の完勝である。

見返し
「野田投手(党首) 内角(内閣)攻められ 投手(党首)交代」



第弐號 統前 新町
外題
「紫電清霜 悪逆砕く 鬼神の舞」
解 説
 江戸寛永年間、旗本奴の白柄組は、伊達藩を逐電した馬庭念流極意皆伝で、
膂力十八人力の津崎兵庫を、仇敵の久米平内と御府内根津で立合をさせる。
両雄長い睨み合いの末、新陰流免許皆伝で武芸十八般に秀でる平内は、見事に鎖鎌を躱し、相手を打破る。
平内は群衆の大喝采を浴び、旗本頭領の水野十郎左衛門は、地団駄踏んで口惜しがる。

見返し
「ツバつけて スマホのページを めくる父」



第参號 統前 菻町
外題
「愛季の夢砕く 知将の采配」
解 説
 天正十五年、秋田湊を掌握した安東愛季は更なる領土>拡大のため、仙北地方に進出。
雄物川舟運路の要所である刈和野を死守する戸沢盛安との「唐松野の戦い」が勃発した。
盛安は戦場での勇猛さと状況判断に優れていたため、人々に「鬼九郎」「夜叉九郎」と称されており、
倍の兵力をもつ安東軍を勇猛果敢に撃破した。

見返し
「電気代・消費税上げ マツリゴト(政) 今日も棚上げ」



第五號 統前 壹騎町一区
外題
「豪将清正 一番槍の功名」
解 説
 天正十一年、羽柴秀吉が織田氏の宿将柴田勝家の軍を打破った合戦いわゆる賤ヶ岳の戦で、
秀吉の家来加藤清正は敵の猛将山口将監に「加藤清正 一番槍」と名乗り大身の片鎌槍をふるって一騎打ちになり
清正が組み敷いて首を掻ぎ落とし功名を挙げた。

見返し
「スカイツリー オラホのタワー(セリオン)は 福(フグ)がつく」



第六號 統前 壹騎町二区
外題
「敢然七人 名利を休す 真の侍」
解 説
 黒澤明「七人の侍」より ― 時は戦国。収穫の度に来襲する野武士の略奪に苦しむ百姓たちは侍を雇い村を守る決断をする。
その意気に感じた歴戦の武士・島田勘兵衛は同志を募り、侍に憧れる農民出身の菊千代を加えた七人の侍が集まる。
侍達は村人を指揮し、菊千代ら四人の犠牲を払いながらも野武士を打ち破る。世界に誇る日本映画の金字塔である。

見返し
「支持を下げ 率を引き上げ ワイルドだ税」



第七號 統前 肴町
外題
「平家荒ぶる 栄華の礎」
解 説
 保延元年(1135年)鳥羽上皇の命により平忠盛が、
瀬戸内海を荒らしていた海賊の討伐使に任じられ日高禅師を首領とする、70余名の海賊を連行し京に凱旋する。
その褒賞として忠盛の嫡男清盛が従四位下の位を得る。この武功が西国に平氏勢力の基礎を築き以後の平氏一族の栄華へと繋がっていく。

見返し
「祭りバカ 瓦礫の山も 大歓迎」



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当方HP↓(写真の人形と関係ございません)

曳山回顧(平成4年将軍野一区)

2012年07月16日 04時55分00秒 | 土崎港曳山祭り
※ あくまでも個人の感想です。悪しからず。

最終回!!

最後はやはり幼少期ずっとお世話になっていた町内、将軍野一区です。


平成4年の将軍野一区です。

「元禄の 泰平揺るがす 山鹿の響き」


私の大好きな忠臣蔵。(泉岳寺の常連です)
そしてこの平成4年の山車が、将軍野一区の中で一番好きな山車です。
この外題、授業中何度ノートに書いたか分かりません。


「泰平揺るがす 山鹿の響き」
泰平の江戸時代、天下の悪法生類憐みの令によって
窮屈な生活をしていた庶民の鬱憤を晴らし、ヒーローとなった四十七士。
山鹿太鼓を鳴らしながら討ち入ったというのは講談での話ですが、
討ち入りの情景が伝わる素晴らしい外題かと思います。

この外題では吉良方の清水一学が主役ですが、これまた忠義の武士だった訳ですね。


岩の形とか、見返しが見えちゃってるのがちょっと残念ですが
人形のバランスめっちゃカッコよくないですか??
このヤラレのポーズもかっこいいですし、当然攻撃もかっこいいです。

何故かみんな髭生えてないし。
私、知らないんですが髭剃ってから討ち入ったんですか?


※ 今回の回顧シリーズ、大変反響が多く、
常にgooブログの上位ランクインしておりました。(総ブログ174万の内、1万位以内は上位でしょ)
今回、大変色々なご意見を頂き、また色々な人と繋がることができやって良かったと思っています。
まだまだ写真はいっぱいありますが、これから帰省するためこの祭り前シリーズは今日で終了致します。
ご覧頂いた皆さま、コメントくださった方々、大変ありがとうございましたm(_)m

祭りでお会いしましょう!!声掛けてください!じょやさー!



当方HP↓(写真の人形と関係ございません)