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制作好房

初志貫徹 ~志無くして進歩なし

曳山回顧(平成2年旭町二区)

2012年09月26日 20時17分25秒 | 土崎港曳山祭り
応援してくれている方には気まぐれ過ぎる更新で大変申し訳ございません。

これからまた頻繁にやっていこうと思いますので今後とも宜しくお願い致します。


さて、本当に気まぐれですが今回は平成2年の旭町二区さん。


「闘将鳴動 基の猛蹴」


垂仁天皇(すいにんてんのう)の命の下、
野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹶速(たいまのけはや)と相撲を取り、
その末に蹴り殺したという紀元前のお話。
※ 当然ググっての情報です・・

うーん、何とも凄い外題ですね。
相撲の起源になってるお話だそうですが蹴り殺すとは何事じゃ。
その後垂仁天皇に仕えましたって、殺人した奴を天皇が雇うのか?
ま、昔はそんなもんか・・


さてさて人形の話です。
右側はさすが蹴り殺すだけあって体格の良い統前人形ですが、左側は誰でしょう?
顔は今年の古川町さんの攻撃の顔だと思いますが・・
体を改造したんでしょうか?そうとも思えませんがね。

それはさておき、ぱっと見面白い配置ですよね!
似たような形の人形を手前に持ってくるなんてあまり他に見ないですね。
まあそれによって統前人形と並べられた左の人形のショボさが際立ってしまってますが・・
そりゃ蹴り殺されるんだべなと。


旭町二区さん、平成17年にも相撲の場面でこの統前人形使ってますが狙ってのことでしょうか?
ちなみにその時も相撲で殺してる場面ですが人形の組み合わせとしてはまさに統前の組み合わせでしたね。



当方HP↓(写真の人形と関係ございません)

曳山回顧(平成2年統前古川町)

2012年09月01日 21時09分18秒 | 土崎港曳山祭り
最近アクセス数が落ちてきたので、気まぐれで曳山回顧です。

今回は平成2年、統前古川町です。


「大江戸彩る力士 纏が喧嘩の華」



3体裸の統前です。服着せて随分贅沢な使い方だと思いますが。
ぱっと見た印象は、主役がハシゴを振れない感じに桜が邪魔してる!というものでした。
まあ当然、桜でハシゴの角度を調整してるんでしょうけどね。

この主役、ちょんまげだと印象がかなり変わりますね。
まあやっぱりこの人形が一番好きかと。夫婦岩くん。
ただ若干飽きて来ましたね。

「め」組の火消、名前があるのは一人だけか・・

外題札に「。」があるのも珍しいですよね。


なだかだ言っても、さすが統前だけあって全体的にバランスの良い素晴らしい山車かと。



当方HP↓(写真の人形と関係ございません)

曳山回顧(平成24年将軍野四区)

2012年08月16日 20時49分00秒 | 土崎港曳山祭り
※ 個人の意見ですので悪しからず。


ちょっと今年の人形を回顧するのは早すぎますが・・
記憶が新しいうちにやっておきたい町内が、将軍野四区さん!

素晴らしかったですね~!
間違いなく今までの「本能寺の変」で一番でしょう。


「忠義貫く 紅蓮の魂」

まさに「紅蓮の魂」ですよね!
また、通称「森欄丸」を敢えて「森成利」としてるのには何か拘りがあるのでしょう。

ヤラレが森成利の方を見ているのも良いですよね。
これが正面向いてたら印象が若干悪くなってしまいますよね。
(正面向きが好きな人形屋が自ら横を向けるとは考えづらいので、きっと指定したんでしょう)


障子から手を突き出させて主役の迫力を増しつつ
その障子が焦げてるという・・素晴らしい心配り。


火矢が放たれてたりまた芸が細かいですね。
これは町内作でしょうか?


炎も町内作に見受けられます。
赤をベースに黄色スプレーで丁寧に加減を見ながら・・でしょうか。(人形屋は黄色が外だったと思います)
スプレーだと炎がメラメラしている感じがリアルですよね!


そして戻り山、「やっぱり赤くしたか~!」と思いました。(ピンボケしててすみません・・)
ぶらりの灯りが無いバージョンも見てみたかったです。


さすがあのお方の手掛けた外題!という印象で・・
粗探ししましたが残念ながらそれらしいところは見つかりませんでした。
火の場面で波を使うのは難しかったと思いますがさりげな~く使ってましたね。



当方HP↓(写真の人形と関係ございません)

東京衆の土崎港曳き山祭り見物

2012年08月08日 18時31分54秒 | 土崎港曳山祭り

※ 東京某所のカラオケ居酒屋に貼られているポスター。詳細は後ほど。


今年の祭りでは、
東京で私が所属している囃子会から8名程来見物にてくれた。

中には秋田が初めてという方もいたので
若干ガラの悪い祭り(祇園系の祭りと比較すると・・ね)を見て秋田の印象が悪くならないかと気になったが
それなりに気持ちよく見ていただいたようで一安心だった。


それも東京で毎年実施している「土崎衆の集い」に来てくれて
興味を持って貰えたからわざわざ来てくれたのだ。
土崎衆の集いに関してあーだこーだ苦言を呈しているケツ穴の小さい輩が土崎に居るようだが、
はっきり言って言われる筋合いは無い。枝葉末節に拘ってたら本末転倒でしょ。
名ばかりの重文に成り下がらないように色んな人に知って貰ってナンボだと思うし、
当たり前かも知れないが、東京に居るどんな祭り好きでも土崎を知ってる人と未だに会ったことは無い。


さて、文句はこれくらいにしておいて、東京から来た方々の感想を先日少しばかり伺って来ました。


まず、お年寄り連中は山車があーだこーだよりも、踊りに夢中だったようで。
中でも八木節に大感動でした。
東京の祭りでも昔は踊っていたようで、まさか群馬県民謡を秋田で聞くことになるとは思わず感動だったようだ。
しばし八木節について熱く語った後に
「今うちの祭りじゃあんなの踊れるのいねーぞ!」ってお年寄りが東京弁で言ってました。
うん、確かに東京じゃ見たことないです。。

あとは、俺が聞いてみたかったのは人形に関して。
「人形とかどうでしたか?」
「ん?あれは筋肉とかわざと作らないようにするのが伝統なのか?」って・・マジかよと。
これ俺の作り話じゃないですよ!
全部が全部そうではないと思うので、どの町内の人形見てそう思ったのか分かりませんが
きっとトータル的にそんな印象を持ったんでしょうね。
小さい頃から大好きな祭りにそういう印象を持たれたのはショックでしたが、
井の中の蛙って怖いなと痛感させられた言葉でもあり、そりゃそーだろなって嘲笑した言葉でもありました。

また、祭りに対しご丁寧にメールで感想をくれた方もいらっしゃいました。
めっちゃ丁寧なメールです。これ↓
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土崎港では多忙の中で曳山のご案内をいただきまして有難うございます。
東京の公民館でも片鱗を拝見した元気溢れる曳子の姿やわっぱの軋み音と対照的に、
安全運行に向けた拍子木と音頭上げの職人技に長い伝統を感じました。
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なにかのパンフレットですかと。


夜は山道ビルのクイーンに行ったら埋まってたらしく、
近くのカラオケスナックでめちゃくちゃ酒強いばあさんと飲んだって言ってました。
どこだろう・・

まあ何はともあれとても面白かったようで私としては安心しました。
あと、秋田は美人が多いなぁって言ってましたよ。そりゃそーだ。


※ 冒頭のポスターはどこから持ってきたか分かりませんが
うちの囃子会の会長が手に入れたらしく、居酒屋にさりげなく貼られています。



当方HP↓

平成24年奉納曳山(第弐拾参號 若松町 ~ 第参拾號 幕洗川三区)

2012年07月31日 22時11分01秒 | 土崎港曳山祭り
つづきです。

第弐拾参號 若松町
外題
「名こそ惜しけれ 耳朶(じだ)の名木(なき)札(ふだ)」
解 説
 「魚津城の合戦」戦国の義将上杉謙信の後継景勝は、北陸など三方から織田信長に攻められる。
越中魚津城を守る中条景泰ら十二将は八十日間猛攻に耐えたが、天下に鳴り響いた上杉武士の名を残すため
自らの名を書いた木札を耳たぶにくくりつけ、壮烈な自刃を遂げる。
籠城戦の最中に信長は本能寺に倒れ、上杉は危機を脱する。

見返し
「夫婦岩 これがおらほの スカイツリー」



第弐拾五號 港北町
外題
「城主実(さね)季(すえ)初陣 難行苦闘 反旗一掃」
解 説
 天正十六年(一五八八)湊城主安東実季が同族道季、角館戸沢等の反旗により「湊合戦」が勃発。
敵勢力は一〇倍の兵、味方わずか鉄砲三〇〇挺で応戦、大苦戦し湊城・脇本城を退走。安東家ゆかりの堅固桧山城一五〇日籠城。
この時、矢島豪勇満安の応援を得て、鉄棒にも劣らぬ槍を振り回して、道季らの連合兵をなぎ倒した。
湊合戦の初陣勝利安東実季は、本格的に政治軍事の拠点として、土崎湊城下町の整備・繁栄をしたのである。

見返し
「止まったら 容易に動けぬ 曳山車(やま)と原発(げんぱつ)」



第弐拾六號 愛宕町
外題
「天下を窺う 稀代の策士」
解 説
 関ヶ原合戦時、如水は西軍が敗れるも戦が長引くと読み、まずは徳川方東軍として九州討伐に乗り出す。
大友義統から攻撃を受けている杵築城の救援要請に応え加勢。黒田八虎の一人、母里太兵衛も苦戦の末、大友方を撃破。
しかし、西軍が一日で敗戦したため、九州平定後に徳川家康と雌雄を決しようとした如水の野望は、儚く潰えた。

見返し
「スカイツリー 負けぬと増税 天を突く」



第弐拾七號 幕洗川一区
外題
「内裏(だいり)炎上(えんじょう) 憤怒(ふんぬ)の雷電(らいでん)」
解 説
 『北野天神縁起絵巻』によれば、延長八年六月二十六日に愛宕山上空から広がった黒雲が平安京を覆い尽くして雷雨となり、
内裏清涼殿に落雷して公卿等数名が巻き込まれる事故があった。
大納言藤原清貫は雷に打たれて即死、右中弁平希世は雷神に蹴り殺されたと言う。時の醍醐天皇も大惨事を目撃して直後に発病した。
かつて清貫らは、左大臣藤原時平の讒言を受けた醍醐天皇によって右大臣菅原道真が大宰権帥に降格され
大宰府に左遷された昌泰の変に加担しており、非業の死を遂げた道真の怨霊が雷神と化して復讐を果たしたのだという伝説が生まれた。
この後、怨霊を畏れた人々によって道真を祀る北野天満宮が創建され、
朝廷はその怒りを鎮めようと道真の左遷を撤回して正一位太政大臣を贈位した。

見返し
「受け入れて がれき((枯れ木))に花を 咲かせましょう」



第弐拾八號 南幕洗川
外題
「閃光轟大飛剣 驚愕武田勢」
解 説
 天正五年、武田勝頼は大軍を率い北条氏の伊豆へ侵攻を企て、両軍は黄瀬川にて対峙した。
風魔一党は激流を巧みに渡り武田勢へ毎夜、夜襲をかけた。
馬に藁人形を乗せ陣へ追い込み驚かせ、またかと思った時に夜討ちをかけ撹乱させた。
乱波の大将風魔の活躍により「恨めしい風魔の忍びよ・・・」と武田軍は詠じ嘆き退いた。

見返し
「祭典(五輪)の 絆綱(きずな)を伝える 電波塔」



第参拾號 幕洗川三区
外題
「逆襲の独眼竜 南奥州を制す」
解 説
 合戦は猪苗代湖の北岸、磐梯山の裾野である摺上原で行われた。
開戦当初は蘆名軍が有利に戦っていたが風向きが東風に変わると伊達軍が圧倒し始め、
蘆名軍は総崩れとなり敗走する蘆名軍は日橋川によって黒川城への帰還を妨げられ被害が拡大、
蘆名義広は実家である佐竹氏を頼って常盤国へ敗走、正宗は南奥州の覇者となった。

見返し
「高さより 絆じゃ負けぬ 夫婦岩」



以上、全町内分です。
ようやく終わったー!雲板さん、助かりました。
回顧はまた後日でも。
※ 港北町さんの表の写真正面から撮ってる写真あったらください。。

当方HP↓(写真の人形と関係ございません)