原子力ムラ(村)、という存在は聞いていたが、どこか遠く・・ごく一部に近い、まあ想像するに、多くて日本の1~2割程度の産業・人口などに、関わりのあるものだろう、とこれまた勝手にイメージしていた。が・・
ど~して、どうして、・・今日の映画「日本と原発」の中で得た知識で、もっとも衝撃的だった事実が、日本の原子力ムラというモノに属するのは・・、電気会社の周辺に、ゼネコン、重工業、経済産業省、官僚、経団連、銀行、メディア、御用学者(大学・病院)、ほか・・あれこれと、ざっと産業全体の6割にのぼるらしいではないか。それを、それ以外の4割が ”電気料金と税金” でもって、支える仕組みになっているのが、日本の経済の実態だったのか。ハア・・道理で、庶民は働く以上に搾取されている(むさぼり取られている)気分になるのは当然なことであるし、また・・”原発反対”というと、なぜか、ふつうの人であっても、そこはムキになって、”経済のためには、原発必要” 言ってみたり、また果ては、反対する人を ”サヨク(左翼)呼ばわり” したりまで、する・・その理由が。なんとなく国民全体の意識が、一丸となって危険な”原発不要”論にまで展開しにくいわけが、わかった。全体の6割が、なんらかの形で、原子力ムラ社会の体制に、恩恵を受けている。これが実態。
しかし、・・なにせ、大飯原発での判決にもあったように、”原発は、いったん事故が起こったときの環境汚染はすさまじ”く、また今日の映画の中では、”原子力は、種の存続を脅かす”つまり人間という種を絶滅させる可能性をはらむ存在であるから、これを失敗をくりかえしながら、発展させるべき科学技術である、とするのははななだ愚かしいことである、と。
福島第一原発では、過酷事故でありながら、いくつかの好条件があって、ぎりぎりのところで、1~4号機すべての原子炉を放置して作業員が全員退避せざるを得ない状況を免れた、という幸運があったことを、忘れてはいけないのだが・・もしそれらの幸運がなければ、ほんとうに、国の半分が住めない場所となり、経済どころか日本全体が大変なとりかえしのつかないことになっていたのを、なぜ教訓にできないのか。あまりに目先のことにとらわれすぎていないか。
あの時の幸運を今こそ生かすべき、考えて選択する岐路に立っている、日本。今、特に地震や火山の噴火も多い。原発がなくなっても、おそらく、いや日本はそれ以上によくやっていける。だが、原発がこの先また事故を起こしたときには、日本はほんとうに終わってしまうかもしれない。