・・新年早々、このような話題は、「不吉な!」と思われそうで恐縮ですが、それでも、・・たった今、1人きりになっていて思い浮かんできたことがあります、それは、この季節になると、ひたひたと押し迫ってくる、あの気配です。そう、21年前になる、阪神淡路大震災、のこと。それは、このように、新年あけて、2週間と数日しかたたない、1月17日、という日に起きたのです。
思うに、あの事が生きると死ぬを分けたのは、一体何だったのだろうか、と思いつめてみても答えはまったく出ませんし、少なくとも、この自分は、神戸市でも山側の方の実家にいて、あのもの凄い揺れは体験したとしても、実際、命などは助かった側にいるわけです、だけど、それが必然なのか、たまたまなのか、考えてみてもそれはわからない、というものです。助からなかった人々が、天の罰などを受けたのか、と問えば、それは、「ぜったいに違う」ということは、できるのですが・・以下、聖書による裏付け → [”イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」/ルカによる福音書 13:2~5]・・
・・それにしても、命がその時点で絶たれてしまえば、人間、誰しも誰に文句を言えるものではありません、自然災害そのほかの事由により、理不尽にもそうなってしまった場合にしても、そういうことが言えます。とすれば、また、同時に、反対に今日(たまたま?または、必然的に)私が生きている以上、その上で不都合な諸事情が色々あったとしても、それに対し、文句を言うこともなく、黙々と生きる、ということしかできないのではないか。ということを考えるのです。人間、自分が死ぬ、という事に対して、文句も言えず受け入れることしかできない存在であるのならば、生きる、ということに対しても然りであって・・、死ぬにしても、生きるにしても、自ら選択することはできず、甘んじて受け入れる、という態度が必要という、表裏一体をなすべきものであるのだ、というように思えてきます。・・
いずれにしても、そのような重い事を考えてしまう、「あの気配」、が、この正月明けの時季になると、いやでも脳裏に押し迫ってくるのであります。1.17は、また神戸にまいります。