徳井由美子の音楽活動(アイリッシュ・ハープ、弾き語り/シンガーソングライター)、思い、日々の記録(2014年以降)

神戸出身・大阪在住。クリスチャン、シンガーソングライター、アイリッシュ・ハープ演奏や他活動・思いの記録

新年、(1.17が近づいてきた)に思う

2016-01-02 10:38:04 | 信仰・瞑想・考察

・・新年早々、このような話題は、「不吉な!」と思われそうで恐縮ですが、それでも、・・たった今、1人きりになっていて思い浮かんできたことがあります、それは、この季節になると、ひたひたと押し迫ってくる、あの気配です。そう、21年前になる、阪神淡路大震災、のこと。それは、このように、新年あけて、2週間と数日しかたたない、1月17日、という日に起きたのです。

 思うに、あの事が生きると死ぬを分けたのは、一体何だったのだろうか、と思いつめてみても答えはまったく出ませんし、少なくとも、この自分は、神戸市でも山側の方の実家にいて、あのもの凄い揺れは体験したとしても、実際、命などは助かった側にいるわけです、だけど、それが必然なのか、たまたまなのか、考えてみてもそれはわからない、というものです。助からなかった人々が、天の罰などを受けたのか、と問えば、それは、「ぜったいに違う」ということは、できるのですが・・以下、聖書による裏付け → [”イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」/ルカによる福音書 13:2~5]・・

・・それにしても、命がその時点で絶たれてしまえば、人間、誰しも誰に文句を言えるものではありません、自然災害そのほかの事由により、理不尽にもそうなってしまった場合にしても、そういうことが言えます。とすれば、また、同時に、反対に今日(たまたま?または、必然的に)私が生きている以上、その上で不都合な諸事情が色々あったとしても、それに対し、文句を言うこともなく、黙々と生きる、ということしかできないのではないか。ということを考えるのです。人間、自分が死ぬ、という事に対して、文句も言えず受け入れることしかできない存在であるのならば、生きる、ということに対しても然りであって・・、死ぬにしても、生きるにしても、自ら選択することはできず、甘んじて受け入れる、という態度が必要という、表裏一体をなすべきものであるのだ、というように思えてきます。・・

いずれにしても、そのような重い事を考えてしまう、「あの気配」、が、この正月明けの時季になると、いやでも脳裏に押し迫ってくるのであります。1.17は、また神戸にまいります。


決して唯物論でなく、・・私達に関わり合いを常に持とうとしている絶対的な存在を信じているということ

2015-10-14 08:37:01 | 信仰・瞑想・考察

 SNS(インターネット上のFACEBOOKなど)での友達の、さまざまな角度・視野からの投稿を次々見ていて、感じざるを得なかったこと・・、私のつながりが、クリスチャンから牧師、また共産党関係者に、リベラルな観点から政治・社会問題に取り組む人、また他に、音楽関係、日々の生活の話題が主な記事の人、千差万別だ・・・実に価値観がめくるめく、めまぐるしい。

 結局、特に政治・社会問題に関する意見を見ていると、その投稿主が、唯物論的観点か、イデア(観念)論的観点の、どちら寄りのスタンスに立って物事を考えているか・・というところに焦点をあてて、知らず知らずのうちに、私も大ざっぱに判断をつけて、分類?しつつ読んでいるなぁ、ということを今思った。・・そこから転じての、考察です。(突拍子もありません)
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 キリストを神の子、救い主として信じ、また世界を創造した神、絶対の創造主の存在を信じる私(共)は、断じて、唯物論者ではない。この世が存在する事は、物質や原子単位から始まったのではない、強い意志を持つ存在・神があって、意図を持って世界を創り、人を創った事を、自分個人の事と関係して信じることができる。

 世界を、意思をもって創られた神は、天に存在されるが、現在もこの地球の私のいる場所に無関心ではないということを、今強く思った。非常に、いつも小さな存在の人間(私個人)に、関わりを持ってこよう、と常にされていることを、証明できる、私なりの感覚(経験)が、確固として有るのだ!ということを(これは、神の存在を証明する、ということに、なり得ないのか?・・ちなみに、この世界では、”神の存在を証明することと、神の存在がないことを証明すること”の両方が不可能である、といわれているが!?)、ここで強調したい。
 それは・・この世に生きる、私(達)を、神が放っておかれない、という事実である。それは、どういう事か、というと、それは、神が、私(達)を、「天に招こう」としている事実である。天に入る、とは”永遠の命”を意味する。それは、この世の命が終わったあとの命の事でもあるが、それだけでなく、この世にある時から、始まっている命である。

 この世で、自分の好き勝手に、思うように楽しく生きようとする。だが、そうはさせてくれない(何か、がさせてくれない、と感じるだろう、誰もが)。倫理や道徳観、自己の良心、そういったものだけでなしに、状況がそうであったり、何より、そうはさせてくれない、力が働く!・・それが、後になってわかるのだが、神の力なのです。・・苦難や試練を与えて乗り越えさせ、また決して楽でない方向に私達を向くように働きかける・・結局は、それが、”永遠の命(道)”に至るように(狭き道)、人を仕向ける、神の生きた方法・愛・意図なのでした。
 ですから・・今、私はこの世にこの身を存在させながら、ふとこのように考えたのです、唯物論なら、この肉体というものがあってこそ、の私です。ですから、この身が滅べば、私も終わりですなぁ。しかし・・(同時に神様の永遠なることを瞑想していたんですが)いや、”もし”、永遠に生きられる(それが死後のよみがえりのあとのことなのか、このまま生き続ける(再臨による)のか、そのどちらかである)のなら、まんざら、終わりではないのだ。ほんとうに、この精神・・いや、私の魂と記憶(は全部ではないでしょうが)を持ったまま、つまり、この私が永遠に生きられる・・神とともに!ことに、なるの”かも”知れない?!。それは偉大なことだ・・
「もし」?「かも」?では、ないのだ・・建前上、いやいや、本心、キリスト者は永遠の命をもらったもの、と信じているはずなのだが、いや、ほんとう、真実なのですね。

 完全(パーフェクト)である、何が完全か、って、神の、私達に関わろうとする、その業が、である。そこに、意思がある、必然がある。意図を持って、私(あなた)を天国=永遠の命、に招きいれようとする神の業がある。この世で私(達)が抵抗しない限り、私(達)はそのように、招き入れられる。そうすると、神は満足される。そしてこの世で、やっと私も、安心し、安寧でいられる。この世でそういった状態で私が生きられている、ということが、神の意図する”そこ”に、私も招き入れられている(今・現世から始まる永遠の命に入っている)という何よりの証なのです、とそう思う、と。(かつて、そうでなかった時の自分の、この世界での居心地の悪さ。自分に対する、違和感とが、よい比較である)
 もし、私がまた・・この招きからはみ出るようなことをすれば、愛を持って、神はまた、そこへ招くように導かれるだろう。・・というように、たえず、神は、何らかの形をもって、人に働きかけていることが、みなさんにも同じように、証明できるのでは?ないかと思うのです。

 この世の中の時勢・政情がらみでの投稿・意見文の中で、”この世でのことだけで、終わり”・・というような、多くの投稿記事を読み、つらいものを感じましたので、こんなふうに思って書いてみました。


”小さくされた者の側に立たれるイエス”版画、炊き出しの列・・

2015-01-25 11:52:45 | 信仰・瞑想・考察

この版画絵、西成区の あいりん地区にある、(正確には、西成署横の、四角公園の真前)「いこい食堂」の中に、かけられている。いこい食堂は、金井愛明さんという牧師さん(永眠後約7年)が始められた、労働者の方のために 炊き出しをしている拠点で、・・自分は最近、ここに月1回(第4金曜)の割合で、活動に参加させてもらっている、つながりがある。

この絵に、年末に気がついて、写真を撮り忘れ、気になって・・・今年1月23日に行った折、やっと撮れたので、掲載している。

この絵の片隅に、製作者の名前と年月なのか、”T.FUKUI 2003.7” とだけ添えられている。先に、FACEBOOKにも投稿したところ、この版画そのものの作成者は、日本キリスト教団大阪東十三教会 斎藤 成二牧師より、”この版画の製作者はうちの教会員であると思う” というコメントがあり、さらには、オリジナルの絵について、

「フィリッツ・アイヘンバーグ(1901年〜1990年・ドイツ系アメリカ人)による作品『炊き出しの列に並ぶイエス』(1953年)だそうで、本田 哲郎氏による著作『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)の表紙にも載っている」ということを、後で教えていただいた。(情報提供 永田恵さん~神戸バプテスト教会 による)



以下は、既投稿済みの(FACEBOOK)私の添付文である

”『小さくされた者の側に立たれるイエス』という版画絵です。・・”T.FUKUI 2003.7” (作製者と年月)が添えられています。
この版画は、西成区・あいりん地区の「いこい食堂」の内部に、かけられていて、最初、気づきませんでした。昨年末11月に気がついて、写真に撮り忘れ、今年になってようやくとれました。心打たれたんです
 この絵画で、列に並んでいるのは、当然この地域の、炊き出しに並ぶ、労働者・野宿者の男女の人々でしょう その中央に、(人の目に姿は見えずとも)キリストが、同じ姿で、並んでいます。・・信じない人なら、”なにをそんなバカな?” ”神がいるのなら、目に見えるだろう 見えないものは存在しないのだ” とおっしゃる・・かな? だけど・・今ではキリスト者になった私は、過去の自分の経験上から、キリストが、貧しい者、困った者、もっとも苦しんでいる状況の者と、”こそ共に” 寄り添って存在してくれるのが、よくわかるのです。(事実、十字架の刑の最後まで味わいましたから・人のかわりに) 損も得もかえりみない、神の子イエスが、労働者・野宿者の列に、見えなくても並んでおられるのは、よく理解できます。この絵に、とても敬虔な気配を感じ、尊く思います。”
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この日(1月23日)は、天候不順で公園の足元がぬかるんでいたので、いつもの四角公園でなく、配給を 新今宮の近くの あいりん労働センター(といっても、入り口の吹きさらしであるが)で 行った。・・

金井愛明牧師(故) ・・いこい食堂をはじめられた


四角公園、炊き出しの列ができるところです。
 

いこい食堂 正面玄関 (空く前)       おにぎり大を、この鍋4つ分位、200~300個台握る
 


以下は、余計であるが、最近の自分の考えたことである(おまけ・既投稿文)

”・・あの頃は、独身時代、たった1人で生きていたつもりですが、それも神と二人三脚で・・
貧しくて、生活が困窮していても、その中で 得られる、束の間の肉体的な休息とか、質素な最低限の食事とか、睡眠とか、または戸外で吸える空気とか、目に心地よい光とか、また自由とか解放感とか。精神的に完全な安寧と信頼感。それは、”神様と2人きりの貴重なひと時”だったのです。
つい、このごろは生活的に衣食住足りて、その上で、あれこれと人間的な考えで、より高度(えっ?ほんとうに、そうなのか。)な人間的欲求に関する不平・不満を心に満たしがちではないか?ふっとそのことに気づくことがある。
あの頃(物質的に貧しい頃)は、より豊かで満ち足りていた瞬間が、より多くあったことを思い出す。原点に、かえりたい。”・・と思う。


大阪朝祷会3000回記念誌に載せてもらい損ねた幻の投稿・・

2015-01-25 11:47:41 | 信仰・瞑想・考察
昨年2014年10月に、全国で、初の朝祷会つまり、超教派クリスチャンの祈りと食事の会の発起の先駆けとなった、『大阪朝祷会』(於・大阪クリスチャン・センター)の第3000回記念。式典も行われ、また、記念誌が発行されました。そこに、各方面から、お祝いの文章が寄せられ、私もまた、一寄稿者として、投稿したのですが、あいにく、掲載されず、残念に思っておりましたら、ご担当者から、「単なる事務手続きの連携のミスで、非常に申し訳ないことでした。」説明・お詫びがあり。・・まあ、多少納得できました。せっかくなので、人目に触れずお蔵入りとなった、”幻の”私の寄稿文をここにも寄せておきます。・・。(以下)あまり、意味ないことかもしれませんが。・・自分自身、投稿した内容を忘れておりました
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 主の御名を讃美いたします!!大阪朝祷会、開設より3000回目、心よりおめでとうございます。
 大阪朝祷会が、全国の中でも最も早く、一番目に開設されることとなった、57年前の当時のご様子・経緯を、撮影された写真やスライド、また先人の書かれた文などを読むにつけ、まさにキリスト者が教派の壁を超えて集い、同じ目標に向けて心をひとつにして祈る時に、聖霊が共に居て働いてくださるという真実を思わされ、感動が胸に込み上げることを思います。
 キリストにあって、ひとつ。は口先でくりかえされるだけの題目や絵に描いた餅であってはいけません。その事一つでもってのみ、我らクリスチャンの最大の使命、「次世代への伝道」がよりよく果たせるものであると信じるからです。
 私達は多く学べば学ぶほど、何か偉い者となったかのごとく錯覚に陥り、分派をし、排他し、自分達こそが選ばれた者であるかのような間違いを起こし得ます。が、それはキリストの歩まれた道・態度と、真反対を行くものであります。「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」(マルコ9:35)と言われた主、そしてご自身は、「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:8)、キリストの御姿を常に見つめ、追い続ける道だけが、その分派や闘争の恐ろしい罠から免れる唯一の方法です。
 どうか、全国朝祷会の先駆けとなった大阪朝祷会がこの先も豊かに恵まれますよう。併せて、全国各地の朝祷会のそれぞれが、この終末の世における、真のリバイバルの先駆けとなりますように、心より祈り、敬意と愛着の念をもって、お祝いの言葉と変えさせていただきます。(旭高殿朝祷会・徳井由美子)

川口基督教会(日本聖公会)に、初・礼拝訪問

2014-08-03 16:23:11 | 信仰・瞑想・考察
”日本聖公会”系の教会である、川口基督教会(大阪市西区)に、初めて行ってきました。(ちょっと、理由づけはあったのですが、とにかく単身。知る人ひとりいない場所です。ここで、自分はプロテスタント系に所属するので、日本聖公会の起源や教理、ミサというのか礼拝というのか、そこらあたりの用語の知識もなく記していますので、ちょっとしたまちがいがあってもご容赦くださいね)

荘厳なオルガンの音色。(奏楽技術もスゴかった)重厚な建築物(石造り??)。
カトリックとちがって、ここでは教派が違えど、一信者の私に、聖餐式のパンとぶどうジュースをくれました。・・ここでは、司式は前の祭壇部で行われ、信者はそこまで列をつくる。パンを司祭から受け取り、それを隣の司式者の持つ、ぶどう酒の器に浸して、その場でいただく。☆:感想。不謹慎かもしれないが、パンはうすべったく白い、せんべい(そういえば、マナ、ってこんな感じに描写されてる?)のようで、ぶどう汁は、濃厚なワイン(酒)に思えた。

・・キリスト教のこういう聖餐式に使われる、パンやジュース(酒)のみかけも、また、作法も、教派によってまちまちです。私は、これまで、もちろんプロテスタント系では自教会の他、色々な諸派にて~ここでは、作法に小さい差はあれ、とまどいはほぼありませんね~受けてみたり、また、カトリックのミサではこちらが待てど、パンをくだされず、悲壮な思いをしてみたり(トラウマ?・・)でした。

この式(礼拝)の長さは、たっぷりで、1時間半。説教の長さはふつうのプロテスタントと同じか、短いか、くらいですが、なにせ、聖歌や、祈祷書からの交祷、そして代祷に、それが終わったら、”主の平和”のあいさつを、近い席の人同士で、また壇上から降りてきた複数の司祭ほかと、交わす時間がたっぷりあったりして。聖歌→祈祷書→また聖歌、・・気がつけば、後半の”使徒信条”を読むあたりから、自分はどれの何処を開けるのか、見失ってましたね(口パクで良。)あと、余計な事をいうと、5~7曲程度、まったく初めての歌があったけれど、こちらは、楽譜の初見で歌えます(ヒヒ)。

といろいろリポート?しましたが。ここで大まじめになりますと。
各教会・教派での礼拝のスタイルや、歌、はては、説教者の話す教理が・・ギャップがあっても、そこは”形式”だということを、よく肝に銘じないといけないと思います。各教派間で、小さな(けっこう大きい時も)教理の差もでます、でも、キリスト者がそこに着眼して、こだわってしまったら、元も子もありません。悲
(+_+)

私は、このように、他教会へお邪魔する時は、厳密には異邦人のような疎外感を感じないこともありませんが、ひとつのことだけが大事である、と思います。それは、キリストを胸に抱く、です。それこそが中核なんですから。キリストこそが、共通思想、共通価値概念、共通言語、愛。逆にそれがなかったら、キリスト教会へ行って、虚しい、ということを感じるでしょう。

もっと、個人として、感覚・感性的に申します。
今日の初めての訪問教会の礼拝は、私にとって、よかったと思えます。その理由は・・、「キリストを感じることができた」からです。
礼拝・教会に行って、どんな場合によかったか?とするなら、私は 1.説教がすごくよく、開眼された。新たな啓発をもらった。神学的洞察が深まった。素晴らしい証をもらい、恵まれた。・・ということがひとつにあるとしたら、3.つめに、信徒の人と、すばらしい交わりができた。というところでしょうか。もし、そのどちらもなかっても、次のことがあったら、OKなんです。

・・キリストの香りをいただく

ことです。2千年前に、地上におりられた、『主の香りが、ここまで漂ってくる』・・ことも素敵だと思います。しかし、今日の聖堂の中で礼拝を待っている時間と、また始まって、幾度となく 歌を通して言葉を通して、視覚的な印象を通して、・・『私が、近代を、中世を・・さかのぼって、2000年前の、そこ、キリストのおられた場所』にまで、タイプトリップをしたかのような。そんな豊かな錯覚を起こさせてくれました。そのことに、いささか驚き、説教や音楽を耳で聞いたり目で見たりしながら、心はキリストの時代に遡ったり、現代に戻ってきたり、・・不思議なかんじでした。そう、ひとつの結論です、私にとってよい教会、とは なにをおいてもイエス・キリストの香りを運んで来てくれる、または私がそこへトリップできる、それを容易にしてくれる、教会です。