ゆかりんご

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昭和偉人伝

2014-06-06 23:50:51 | ジュリー
4日のBS朝日の番組です。

阿久悠さんの特集です。

阿久さんは作詞家としての心構えみたいなのを15条として作っていたそうです。

生涯作詞したのは5000曲以上。
レコード大賞5回、作詞賞7回。

石川さゆりさん「歌を書くことで応援するからとおっしゃってくれた」

ピンクレディーのミーさん「最初は怖い人だと思ってたけど、ペッパー警部のイラストが添えられててお茶目な人だと思った」

阿久悠さん。1937年生まれ。
はじめて聞いた歌謡曲は湖畔の宿
中学生のとき、肺結核になり、あまり激しい運動ができなくなった。
それで、地元の映画館に通うようになり、これがのちのちの作詞家活動に大きな影響を与えることになったそうです。

この頃から意識していたのが、同い年の美空ひばりさん。この頃にはひばりさんはすでに大スター。

明治大学卒業後に才能が開花する。
広告代理店に就職して、内緒でラジオやテレビの台本を書いていた。
このころから阿久悠という名前を使う。

昭和40年代のグループサウンズブーム。あまりの人気に、曲を書ける作詞家が足らなくなり、阿久悠さんに作詞の依頼がきた。
昭和45年ごろから作詞家として注目され始めた。

また逢う日まで
この詞は最初は違う歌詞で出していたけど、まったく売れなくて、時代に合わせて、優しさとふれあいを感じさせる歌詞に書きかえ、大ヒットになった。
ふたりでドアを閉めて、ってのが今風になり、このふたりが暮らしたのはマンションだと感じさせる。

能登半島
石川さゆりさん「時代の風や情報をキャッチして、時代に合った歌を書いていらっしゃった」

ここから怒濤の快進撃が始まった。

歌手をドラマの主人公に仕立てあげる。
これを表現するのに、白羽の矢を立てたのが沢田研二。
昭和52年。かつて見た映画の「勝手にしやがれ」をモチーフに、沢田研二を主役にした歌を書いた。
勝手にしやがれ
みごと昭和52年のレコード大賞に輝いた。

昭和50年、時の過ぎゆくままに
これも映画をモチーフにした。

女性が自立する時代でもあった。
津軽海峡冬景色
一番では泣いているのに、二番ではすでに心を切り替えてる。このあたりに女の強さがうかがえる。

作詞家憲法13条。
歌にならないものはない。
1本の映画を歌の中に盛り込んだ。

ペッパー警部
これによって、歌のアニメーション化をはかった。明るいアメリカンコミックの世界を描こうとした。
おもちゃ箱をひっくり返したような世界を。

昭和53年UFOでレコード大賞。

心の中には常に美空ひばりさんの存在が。
美空ひばりで完成したものではない歌を作る。これが作詞家憲法の第1条だった。
そして、のちに八代亜紀さんが歌うことになる舟唄を美空ひばりさんのために作った。
これは美空ひばりさんによってレコーディングされることはなかったけど、八代亜紀さんのマンネリ化を突き崩し、大ヒットになった。
さらに雨の慕情でレコード大賞。

次は小説を書き、それが映画化される。

平成19年8月1日、70歳でこの世を去った。

死後もその作品はリリースされ続けているそうです。
ジュリーも阿久さんの作品と出会ったからこそ今があるのかな、と思います。
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