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空海巡礼 京都散歩(乙訓寺⇒綜芸種智院⇒仁和寺)

2019-06-03 | 街道歩き


 岡山から京都へ、高校時代に長岡天神で寮に入ってました。しかし当時は
神社仏閣全く興味なし、まさかこの乙訓寺が空海が別当を勤めたとは全く知り
ませんでした。またあの最澄が空海を尋ねて何度も訪れていたとは。1300
年の昔をこの山門の前で感じてみました。

















 真言宗豊山派長谷寺の末寺。乙訓地域で現存するもっとも古い寺院で、聖徳
太子が開いたといわれています。延暦4年(785)に早良親王が幽閉され、
弘仁2年(811)には、空海(弘法大師)が当寺の別当に任じられています。
書簡には、弘仁3年10月27日に、空海と同時に中国へ仏教の勉強に行っていた
天台宗の最澄(伝教大師)が空海を訪ねてきて、二人で密教について法論を交
わしたという記録が残っています。












 綜芸種智院跡です。今はお寺です。
空海が庶民教育や各種学芸の綜合的教育を目的に、
藤原三守から譲り受けた京都の左京九条の邸宅に設置[1]した私立学校といわ
れています。空海って凄いですね。この時代に庶民のための学校ですよ。












 そして何度も来たことのある仁和寺です。この仁和寺の前に友人の家が
あって、よく集まりすき焼きしたものです。今は更地となっていました。
どうしてるのかな?ここは桜の時期が最高です。前に来たときの写真です。















 真言宗ですが、空海が直接どんな関わりがあったかはよくわかりません。
ただ弘法大師空海の『三十帖冊子』に代表される経典類、『医心方』をはじめ
とする医書類、 『御室相承記』などの歴史史料や『御室御記』、『明月記』と
いった日記類など、 仁和寺には莫大な古文書類が残されています。
 空海の足跡は直接はないようです。






 屋根の上の像は何でしょう?





 弘法大師です。





 最後にここ仁和寺に湯浅宗重の孫「明恵上人」の掛け軸があるようですが、
聞き忘れました。また行かなければ・・。
 こうして西大谷の墓参りを終え、バスで伊丹空港へ。帰途につきました。
京都は住んでいたところにもかかわらず、ほとんどの神社仏閣に行けてない。
老老介護が終われば少し時間ができるでしょう。また街道歩きも、四国お遍路か、
長崎への道か、はたまたドイツ巡礼路か・・ああ夢は多し。
時間、少なし。




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