ゆーぼん街道歩きブログ(欧州カミーノ、東海道他(五街道)、熊野古道、北国街道他)

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伊勢神宮へお参りに!そして奈良へ、そして京都へ。2014.10.27・28・29

2014-10-30 | 街道歩き

 京都のお墓まいりに行く途中、やはり伊勢神宮へ来年のカミーノ安全祈願に立ち寄りました。
伊勢に行けば当然カミーノで知り合ったY氏とお会いしたいところでありましたが、
当方のスケジュールの都合で少し延期しての伊勢立ち寄り、Y氏は既にお遍路驀進中。
残念ながらお会いすることができません。また12月に小辺路に行けそうであれば、伊勢に
立ち寄りたいと考えています。

 さて、伊勢路にはもう一人仲間がおります。幸いにして伊勢市駅まで友人と迎えにきていただき
伊勢神宮を案内してくれました。




 さあ、外宮⇒内宮⇒できれば夫婦岩へとウォーキングです。


  まずは外宮へお参りです。




 秋ですねぇ。菊の大輪。


 よくわかりません。パワーストーンか?手をかざしてみるが特にパワーは感じない。
天孫降臨の場所かな・・とも思うが、焼酎のラベル・・・だな。



 神の小川にかかる橋、亀に見えるところから”亀石”と呼ぶらしい。


 外宮のお参りを終え、歩いて内宮を目指します。
早速遭遇・・・天照大神が岩戸に籠られた時、岩戸の前で踊られた方です。






 平坦路、みんなルンルンです。


 内宮へのみち・・・。燈籠が整備されています。


 さあ、着きました。何度来ても何かゾクゾクって感じで霊験新たか、神の領域に来たあ
と思います。こんなにたくさんの人が往来して、それなりに騒がしいにも関わらず、一瞬の
静寂がおとずれます。すごい!!天照大神!!
平日なのにこれだけの人が訪れる聖地・・・。





 五十鈴川で手を清めます。








 神様を写真撮影できません。ここらあたりからワンショット。


 右手を見ると遷宮前の通路、今は通れません。


 その内宮の中で・・ちょうど休憩所のアウトサイドのベンチで、何とサプライズ!!
友人二人がお茶をたててくれました。伊勢名物の食べやすい羊羹(名前忘れました)とともに。



 そう”日の丸”です。(以下抜粋)
日本で白地赤丸が日章旗として用いるようになった経緯は諸説あり正確には不明である。
一説には源平合戦の結果が影響していると言われている。
平安時代まで、朝廷の象徴である錦の御旗は赤地に金の日輪、銀の月輪が描いてある。
平安時代末期に、平氏は自ら官軍を名乗り御旗の色である赤旗を使用し、それに対抗する源氏は白旗を掲げて
源平合戦を繰り広げた。古代から国家統治と太陽は密接な関係であることから日輪は天下統一の象徴であり、
平氏は御旗にちなんで「赤地金丸」を、源氏は「白地赤丸」を使用した。
平氏が滅亡し、源氏によって武家政権ができると代々の将軍は源氏の末裔を名乗り、「白地赤丸」の日の丸が
天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったと言われる

 我々はもっと日の丸、正式には日章旗をことあるごとに掲げるべきかも・・・。



 夫婦岩まで歩こうと思っていましたが、時間なく奈良へ移動しました。
というのは奈良で


 が開催されており、めったに見れない正倉院の宝物です。奈良へ向かうこととしました。

 早速”せんとくん”です。



 正倉院展を見て、駅への帰り道興福寺に立ち寄りました。
奈良はさすがに立派なお寺が多く、またゆっくりと出直すこととし、次の目的地
京都へと向かいました。







 京都へ向かう電車のなかから、現代に蘇った平城京が見えました。


 そして京都です。今回の目的は戦前・戦後の戦とは”応仁の乱”をさす京都人、いったい
どんな戦争だったのかを歩いて体感してきました。
まずは船岡山からスタートです。
 どうやらここは、1468年西軍の大内正弘・山名教之らがここに拠点を築き、東軍の細川勝元に
よって攻め落とされたところ。

 以下抜粋
 室町時代応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約10年間にわたって継続した内乱
8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元
山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。
乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
十数年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。





 船岡山から俯瞰する古都。中央右の山が比叡山。写真では見にくいですが、京都五山
鳥居をのぞくすべての大文字が見えます。8月16日は大混雑のようです。



 初めて見つけました。”敦盛”です。ここに織田信長がいるとは全く知りませんでした。
ご祭神が織田信長です。














 建勲神社と言うようです。船岡山の一角にあります。
びっくりしました。



 船岡山を下るとありました。船岡温泉。営業してませんでした。
今度京都に行ったらはいろう!
http://www.kyo1010.com/feature/funaoka/




 これはカフェ。ここも閉まってました。


 京都はどこを歩いても名所旧跡。目標を決めて歩かないと。
ここら辺りは室町時代の旧跡が多い。





 そして御霊神社、応仁の乱勃発の地です。








 定かではないが”相国寺”東軍の陣があったらしい。が、諸説ある模様。
うろうろ探したが痕跡はなかった。場所は同志社の上です。立派なお寺です。
南に我が母校立命館があったんですから、本当は良く知ってないといけないのですが、
初めてでした。当時はバイトとパチンコ屋しかしりませんでした、







 ここは西軍の陣跡。
よってこの辺りを西陣と呼ぶ。
東陣の地名は残らなかったようだ。









 そして京都駅までのウォーキング途中に発見です。
秀吉が造った大仏殿。
造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという。
また釘などは刀狩で没収した武器の再利用されたものも使われた。なお、造営期間短縮のため、
大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造「漆膠(「シツクヰ」)で造られた(『太閤記』)。
この大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊した。





 いつもお墓参りの道中、豊国神社と隣の方広寺を歩いて通っているのに、
大仏殿には気付かなかった。看板しかないからかな・・・。



 以上で伊勢⇒奈良⇒京都と三都を早足で歩いてきました。
やはり歴史の多い場所は長期間じっくりと歩かないとだめですね。
次回関西へ行ったら、奈良、山の辺の道と飛鳥路を歩きたい。
あっそうそう、小辺路、伊勢路の熊野古道もあるな。なかなか大変だ。


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