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ゆうちゃんの独り言

モーツァルトが大好きで毎日欠かさず聴いています。人生の生き方は仏教で毎日般若心経を唱え、時間を見つけて寺巡です。 合掌

■ 秩父34観音霊場巡礼!!

2009-11-03 16:16:29 | Weblog

 10月連休の1日と先日の日曜日に秩父へ出かけ、秩父34観音霊場の内12の札所を回
ってきました。秩父34観音霊場は、西国33観音霊場と坂東33観音霊場とともに、日本
100観音霊場として昔から庶民に親しまれた霊場巡りです。

 これまでは機会ある毎に五木寛之の百寺巡礼の寺を回ってきましたが、全国に点在する一
流の寺を訪ねる他に、昔の人々が心のよりどころとした観音様を巡り、想いを伝えて安らぎ
を得る観音霊場巡礼を体験することも必要だと思い、比較的1地域に集中している秩父34
観音霊場を巡礼しようと思い行動に移しました。

 秩父34観音霊場をゆっくり徒歩で回るには、7日間(1回で5観音を巡る)必要だと言
われているので、来年の3月末を目標に34ケ所を回る計画を立てました。

 今回秩父を訪れた2回とも暖かい日差しが降り注ぐ秋晴れのなか、普段運動もしていない
ことから1回で10数kmを歩くことが出来るか心配でしたが、2回とも意外と問題なく歩
くことが出来ました。

 ただし、1回目の巡礼で札所1番の四萬部寺から札所2番の真福寺へ行くには山を登らな
ければならず、坂道を登るに際して、息が切れるなどちょっと大変でしたが、空気が美味し
く感じられる自然の木々中を歩くのも、また格別の喜びを感じました。

 久しぶりに全身で気持ちよい汗を流しました。山頂にある真福寺に到着し、下界を眺める
と山々が青い濃淡による組み合わせで見えるとともに、ぽっかりと浮かんだ白い雲とともに
空が青と白のグラデーションでキャンバスに描いた絵画のような感じでした。

 それぞれの寺の本尊である観音菩薩像を拝顔する際には、真言(十一面観音であれば、オ
ン・マカ・キャロニキャ・ソワカ)を唱えるとともに、自分の願いごとを祈念します。今回
12の寺を回りましたが、それぞれ味のある観音菩薩像でした。

 個人的には、9番の明智寺(建立は建久2年(1192年)とのことです)の前立本尊如
意輪観世音像に対して親しみを持ちました。この仏像は、右手を右あごの下に添えるととも
に、顔全体を右に少し傾けており、全体的に少し色気があるようで親しみを感じました。

 いままでにいろいろな仏像を拝顔してきましたが、秩父の里にある小さな寺に約800年
前から人々の願いをじっと聞きながらたたずんでいる前立本尊如意輪観世音像を見ていると、
自分の身の回りで起こる不安や安堵や希望や失望等のいろいろなことが、一瞬にしてすーっ
と消えてしまったかのような錯覚を覚えました。

 また今回の巡礼の際に不思議な体験をしました。札所6番の卜雲寺と7番の法長寺を訪れ
た際にですが、背中に焼けるような熱さを感じたのと、しばらくすると今度は涼しい風が数
秒間自分に身を包み、いままでの熱さが一瞬にして消えるという体験をしました。

 秩父には江戸時代の巡礼道が現在まで残されており、今回は可能な限りこの巡礼道を歩き
ましたが、これらは田圃の畦道や細い道からなっており、回りの自然の素朴さを感じながら
ただひたすらに歩き続けていたので、陽の暑さと体温の上昇で背中に熱さを感じたのかも知
れません。しかし、今思い出してもとても不思議な体験でした。

 それぞれの寺で参拝した後は、御朱印を頂き次の寺に向かう繰り返しです。まだ2回の巡
礼体験ですが、初めは徒歩で予定通り回れるかといろいろ心配しました。また、寺を目指し
て歩き出した時点では、目的の場所は遠くで目に見えませんが、一歩一歩歩いていると、自
ずと目的の寺に着きます。最後の方になると、巡礼は先が見えない人生と同じだと思うよう
になりました。

 継続は力なりとよく言いますが、何事も毎日の小さなことの積み重ねが、最後に大きな力
に繋がると思います。地道に進むのが最もよい方法なのだと実感した巡礼でした。合掌

■ 最近の世の中に関する想い!!

2009-10-31 21:20:30 | Weblog

 この齢になると、いろいろ想うことがあります。昔の年寄りは口うるさい人が多くて嫌い
でしたが、まさかそのような年寄りと同じような考えを持つように自分もなってしまったこ
とに、驚きと不思議さを感じています。

 最近特に感じることは、人と人とのコミュニケーションが非常に少なくなってきたことに
危惧を感じています。何も言わないでいることが良いとするような風潮が特に強くなってき
ていると思います。例えば満員電車で人の足を踏んでしまった時であれば、素直に非を認め
謝るのが普通ですが、最近は踏んだ者より踏まれた方が悪いような感じさえ受けます。

 何故このような状況になってしまったのかを考えてみると、携帯電話に象徴されるような
個人主義にその原因があるような気がしています。電車の中での光景ですが、昔は新聞をひ
ろげたりや読書をする人が殆どでしたが、いまは多くの人が携帯電話を片手にメールをした
りやインターネットから情報を入手したり、あるいはワンセグTVを見たりと、携帯電話が
中心となっている行動様式になっています。

 このように携帯電話は個人を中心としたコミュニケーションをより強くする力を持ってい
ます。現在は、昔のようにある個人とコミュニケーションする際に間に他人が入らずにその
個人と直接出来るようになりました。ある面では非常に便利になりましたが、反対に人と人
との間の礼というべきものが失われ、全てが友達感覚に陥ってしまっている感じを受けます。

 個人と親しくなる事に異論はありませんが、たとえ親しい者であってもその間には、守る
べき慣習があると思います。これなくして、単に友達感覚で付き合うのは問題です。このよ
うな状態では本当の友情を作り上げることが出来ずに表面的な関係で終わってしまいます。

 何事も簡単に出来てしまうものから得るものには限界があり、量的にもまた質的にも少な
いものです。ある程度の苦労を伴うからこそ、その結果として得るものが充実するのが正し
い考え方です。

 汗や涙や悩み、さらに心の痛みなしの個人の行動から得られるものが、大きなものである
のであれば、それは偽りのものであり、あってはならないものだと思います。全ての行為に
は人としての努力が必要なのです。

 法然が開祖となった浄土宗や親鸞が開いた浄土真宗では、どのような者でも念仏を唱える
だけで仏になれると説いています。当時の既存宗教からは敵対視されたようです。確かに念
仏だけを唱えれば成仏できる教えには批判が集まり易いように思えますが、鎌倉時代の庶民
の暮らしは現代の生活と比べると雲泥の差があります。

 すなわち、これらの時代背景を考えると、その当時の人々は生きる事それ自体が大変なこ
とだったと思います。ですから法然や親鸞は、苦労している者を救う道を考え広めたものと
個人的に考えています。

 これらのことと、今我々が生きている現代の生活レベルを考えるとどうでしょうか。確か
に世の中は二極化する傾向がさらに強くなってきています。よって弱者を助けることは重要
なことですが、本当にそうなのかということを考える必要があります。

 助ける前に、まず人間として行うべきことを確実に行動することが大切なのです。このよ
うな行動をとっている人には暖かい手を差し伸べる必要があると感じます。またこのような
心があっても、実際に生きていく際に出来ない人も中にいます。

 まず心があれば良いと思いますが、その判断は非常に難しいと思います。これらを可能と
するには、仏の心を持った人に判断してもらうしか凡人には成す術がありません。

 親鸞はどんな悪人であっても成仏できると言いきっています。凡人の私には、まだ理解出
来ないレベルの教えです。理解出来るまでは自分の考えを大切に、また他の人の意見を謙虚
に聞きながら、さらに自分の考えをブラッシュアップするしか凡人には生きる方法はありま
せん。何事もその事実や事象を直視し、その中から自分なりに考えをまとめ、より良い方向
に進むように対処するのが、今の自分の状況の最良な方法だと理解しています。

 電車の中で携帯電話で何かの行動をしている人々が、意味のある行為をしているのであれ
ば良いのですが、いまの日本の状況や社会で起きている事象を見ていると、安易に流れてし
まっている感じがあり、とても心配です。

 もっというなら日本の国が危ないと思います。危機感を持つ人がもっと多くなるべきです
し、自分も微力ながら何らかの力になりたいと思っています。皆さん!日本の国を救いまし
ょう!!そのためにはもっともっと個人レベルで切磋琢磨し、己を高める必要があると思い
ます。人間は一生修行なのです。すなわち生きること自体が修行なのです。合掌

■ 第1656回NHK交響楽団定期演奏会を聴いて(Cプロ初日)♪♪

2009-10-26 00:43:48 | Weblog
 
 先日のAプロに引き続き、ハナ金の夜にN響のCプロの定期演奏会に出掛けました。指揮
者は前回と同じアンドレ・プレヴィンです。Aプロの演奏を聴いていて、プレヴィンの演奏
があと何回聴けるか分からないと正直感じたので、今回の演奏会に出掛けたのも一つの理由
でもあります。

 演奏曲目ですが、プレヴィン自身の作曲によるオウルズ(2008)日本初演、モーツァ
ルト/ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488とショスタコーヴィチ/交響曲第5番ニ短調
作品47でした。先週の演奏会と異なり、今回はモーツァルトの作品が取り上げられている
だけでなく、ピアノ協奏曲で大好きな23番ですからたまりません。ピアニストは、池場文
美でした。

 最初の曲ですが、以前から何度も申しているように、現代音楽は難解だと思っているので、
例えプレヴィンの作品であっても、モーツァルトのような分かり易くかつ素直な作品ではな
いと構えて聴きました。

 あまりにも構えすぎたのかも知れませんが、それほどきつい現代音楽ではありませんでし
たが、それなりに理解するのに時間と心の消化能力を高める必要がありました。ただ、楽想
が穏やかかつ緩やかなこともあって、違和感は少なかった作品でした。森の中の2羽のフク
ロウの様子を描写した曲です。

 続いて演奏されたモーツァルトのピアノ協奏曲ですが、結論的にいうと少し不満があった
ピアノ演奏でした。池場文美というピアニストの演奏を初めて聴きました。才能がある演奏
家であることは認めますが、この23番の第二楽章の弾き方に異論がありました。

 第一楽章と第三楽章の音の大きさは問題ないと思いますが、第二楽章はもっと小さな音で
弾くべきだと思います。極端な言い方をすると、耳を澄まして聴かないと聴こえない位の音
量で弾く必要があると個人的に考えています。

 全ての楽章を同じような音量で弾いていたので、全体的に単調で感情移入が出来ないよう
な印象でした。批判をする立場にありませんが、教科書通りの弾き方で面白味が足りないも
のだと感じました。

 ただし、プレヴィンの演奏は、いつものモーツァルトを演奏する時と同じ取り組みで、丁
寧な音づくりと柔らかい感情が伝わってくるもので、流石プレヴィンだと思いました。

 後半はショスタコーヴィチ/交響曲第5番ニ短調でした。私が学生の頃はショスタコーヴ
ィチと言えば交響曲5番の「革命」でした。良く分かりませんが、最近は「革命」という副
題は使わなくなったのでしょうか。

 さて、プレヴィンの演奏ですが、第一楽章の出だしから中盤まで聴いたところで、プレヴ
ィンの高齢が影響して、この内に秘めたエネルギーが最終的に爆発する場面まで持って行く
体力が心配になるくらいおとなしい演奏でした。

 しかし第一楽章の中盤以降になると、徐々にエンジンがかかってきたというか、力強くま
た重厚な音に変化してきました。これはプレヴィンの指示だったのかも知れません。

 演奏の内容は、2楽章以降急速に充実度が増し、最終楽章で全てが燃え尽きた感じの演奏
で、通常のショスタコーヴィチの演奏とは異なる、円熟した大人の内に秘めた魂が昇華する
ような感じを受けました。

 過去にムラビンスキーのような強烈なショスタコーヴィチの演奏を聴いて記憶している世
代ですが、今回の演奏内容は今の自分の状況に合致したショスタコーヴィチであり、プレヴ
ィンの演奏解釈の素晴らしさに、手のひらが痛くなるほど拍手をした演奏でした。

 とにかくプレヴィンの演奏は、円熟した大人の演奏で、どの曲でも優しい精神が入れ込ま
れていてゆっくりとした感動が伝わってきます。本当に満足出来た演奏会でした。

■ 第1655回NHK交響楽団定期演奏会を聴いて(Aプロ初日)♪♪

2009-10-18 17:05:39 | Weblog
 
 昨日の土曜日に、N響の定期演奏会に出掛けました。今回は指揮者がアンドレ・プレヴィ
ンでしたので、前回の演奏会のような素晴らしい演奏内容を期待するのは、誰もが例外なく
思うことだと思います。

 演奏曲目ですが、W.リーム/厳粛な歌(1996)、R.シュトラウス/歌劇「カプリ
ッチョ」作品85から「最後の場」そして後半がR.シュトラウス/家庭交響曲作品53で
した。

 前半のW.リーム/厳粛な歌ですが、ウォルフガング・リームという作曲がいるというこ
とを、今回初めて認識しました。1952年生まれとのことなので今年57歳です。作品の
数は500曲を超えているとのことなので、これは驚異的というべきものだと思います。

 私にとって、現代音楽の作曲家の作品を理解するのに、いつも非常に苦労します。それは
モーツァルトのように美しい旋律や素直に心が和むようなものではないからです。音調は不
安定であるし、調和のとれたものは本当に少ないと思います。

 それでも現在多くの作曲家が挑戦している現代音楽の分野があるという事実は、これまた
驚きです。確かに新たなものを創造する際には、既存のものを一旦否定することから始まる
のが流れであることは理解できますが、実際に音楽として聴いた場合は、多くの場合には個
人的に受け入れられないものが多くありました。

 今回もそのような分野の音楽だろうと思っていましたが、予想が大きく外れました。ブラ
ームス的な匂いが少し漂う中で、静寂と枯れた音色というか渋さを超えた重厚な感じのする
音楽でした。他の現代作曲家に比べれば、少し聴きやすい分野の作品だと感じた次第です。

 前半の2曲目はR.シュトラウス/歌劇「カプリッチョ」作品85から「最後の場」で、
ソプラノ独唱はフェリシティー・ロットでした。この曲も初めて聴く曲でしたが、R.シュ
トラウスらしい感じのする曲想であり、ソプラノの優しい響きに聴き入りました。

 後半は、R.シュトラウス/家庭交響曲の大曲でした。R.シュトラウスお得意の管楽器
がバリバリと吹きまくり、弦楽器も弦が切れそうになるくらい力を入れた演奏でした。

 細部にわたり手の込んだ構造になっているので,食事でいうと脂っこい西洋料理の感じで
す。この歳になるとサッパリ系の和食が好みとなりますが、そうではないことから,聴き終
わると少し耳が疲れるような感じを受けるのは私だけでしょうか。

 確かに若いころはベートーヴェンやマーラー等の重厚な音楽を好んで聴きまくりましたが、
いまやそのような若さというかバイタリティとでもいうのでしょうか、そのような元気の源
が無くなり,毎日枯れていく感じがしています。

 演奏全体はしっかりと押さえられて引きしまった演奏でしたので、4楽章が終わった時点
での拍手はそれはそれは凄かったです。重厚な音でフィナーレを迎えるような曲の構成にす
ると、聴く側は最後良ければすべて良しとなってしまうような錯覚に陥りますが、今回の内
容は錯覚ではなく充実した演奏内容であったと思います。

 最後になりますが、一つ心配なのはアンドレ・プレヴィンの年齢です。80歳の年齢はこ
のような大曲を振ったあとは体力的に堪えるのではないかと心配になります。今後ともN響
を指揮して欲しいと思うので、あまり体力や気力を消耗しないようにしていただきたいと思
っています。舞台の袖にもどる足取りもちょっと心配になるくらい弱よわしい感じでした。

■ シルバーウィーク5日間の過ごし方!!

2009-09-23 13:24:46 | Weblog

 今年のシルバーウィークは5日間の連休となり、日本各地で人出が多かったようです。今
回の休みは仕事はせずに読書と寺巡りをし、久しぶりに充実した休みを過ごしました。寺に
関してはまた別の機会にお話をしようと思いますが、具体的には曹洞宗大本山總持寺と、高
野山真言宗弘明寺を訪れました。ともに横浜市にある寺院です。特に弘明寺では十一面観世
音菩薩を真近で拝顔することが出来て、こころが穏やかになった気がしました。

 読書は、全てが仏教に関するもので、特に禅宗関連のものを3冊と五木寛之の最新作であ
る「人間の運命」を読みました。どの本も自分の生き方に関して反省あるいは納得出来るこ
とが多くあり、役に立つものばかりでした。

 この齢になってもまだまだ自分を見つめ直すことの多さに驚きを感じるのと、人間の生き
方の根本は非常にシンプルであるが奥が深く、それを極める事の大変さを改めて感じました。

 いつも書くことですが、人間はどのような人生を送り、そして死んだら良いのかの明確な
方向がまだ見えないのです。自分の寿命があとどれだけか分かりませんが、どんなことがあ
っても死ぬときには満足した気持ちで浄土へ行きたいものです。そのためにも、一日一日を
大切にして生きることが重要であることは言うまでもありません。

 自分の将来は、現在の自分の行動が引き金になっていることを再度認識する必要があると
思います。運命とか宿命とかいろいろな言い方がありますが、全て自分が行った結果が廻り
まわって自分のところに還ってくるものだと思っています。

 良く自分は幸せだとか不幸せだとかいいますが、よくよく考えてみると、全て自分が何ら
かの係わりをもっていたからこそ、その結果として形に現われるものだと思います。

 仏教では「生老病死」が四苦であり、さらに「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」、
「五陰盛苦」の四つの苦を加えて四苦八苦と呼ばれています。生きるには、これらの四苦八
苦から逃れることができません。従ってこれらを自分の中で確実に把握して理解し、それに
伴った謙虚な姿勢で臨むしか生きる方法はないのだと思います。

 仏教では、偏るな、囚われるな、拘るなの基本的な行動様式が示されていますが、なかな
かこの3つの行動から抜けられないことから、人間は常に悩むのだと思います。煩悩を断ち
切り、自分の心に素直に従うことが最終的に正しい道に繋がるのです。

 現在の世の中は、0か1かのデジタル的な考え方が蔓延っていることが、人間関係や社会
に潤いのない、殺伐とした状況が生み出されているのだと思います。

 確かに世の中の構成は、白か黒かとか0か1かのような相対する関係の中で成り立ってい
ますが、仏教でいうところの偏らない考えを基準に考えると、アナログ的というか人情とで
もいうのでしょうか、もっと暖かさを感じる考え方が、正に今求められているのだと思いま
す。

 仮に今までの行動の中で、自分よりも他人を少しでも優先する行動が、いろいろなところ
で少しづつでも出てくるようになると、人間社会は急減に変化すると思います。そのような
社会がいつ到来するのか分かりませんが、自分としては可能な限り自分を捨て、他人のため
に行動することを、ほんの少しでも実行していきたいと考えています。

 この9月に日本では政権交代が実現しました。前よりもこれからの方がより変化が激しく
なると思いますが、変わることの重要さは大切にしたいと思います。仏教では永遠に変わら
ないものはないと断言しています。

 全ては変わるものなのです。それを認めるところから仏教は始まるのです。皆さんも行動
して変わりましょう。合掌

■ 第1653回NHK交響楽団定期演奏会を聴いて(Aプロ初日)♪♪

2009-09-22 17:41:50 | Weblog
 
 シルバーウィーク5日間が始まる19日にN響の定期演奏会を聴きに行きました。今年度
の新しいシーズンがこの9月公演からスタートしました。今回の指揮者は、クリストファー
・ホグウッドです。

 ホグウッドは、1973年にイギリス初の古楽器オーケストラであるエンシェント室内管
弦楽団を創設し、モーツァルトやハイドンを中心にこれまでに多くの古楽を中心とした演奏
に取り組んできている世界の第一人者です。1941年生まれですから今年68歳です。


 特にモーツァルトの交響曲全集を古楽器の編成によるオーケストラでしかも、演奏方法等
を新たな視点で研究した成果物であるCDは、いまでも聴くたびに新鮮な感動を呼び起こす
名演だと思います。

 今回、ホグウッドの演奏が聴けるので期待を持ってNHKホールへ出掛けました。ただ今
回の演奏曲が全てメンデルスゾーンであったことが少し引っかかりました。なんでも今年は、
メンデルスゾーン生誕200年とのことですので、オールメンデルスゾーンのプログラムに
なったのでしょう。

 曲目は、メンデルスゾーン/序曲「フィンガルの洞窟」作品26(ローマ版)、ヴァイオ
リン協奏曲ホ短調作品64(初稿)、交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」でし
た。

 これらの中で、特に素晴らしい演奏であったのは、最後に演奏された交響曲第3番イ短調
「スコットランド」でした。弦楽器の素晴らしい演奏が特に目を引きました。通常の弦楽器
の配列と異なり、第一ヴァイオリンの隣にビオラ、チェロ、そして第二ヴァイオリンの順で、
古典音楽で採用されていた配列でした。

 ですから第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの掛け合い等の場面では、左右での音の競
演ですのでとても楽しく聴くことが出来ました。個人的に初めて聴いた曲でしたが、モーツ
ァルトを聴きなれている者からすると、しつこい感じのフレーズが随所に現われ如何なもの
かと思いました。イメージですがシューベルトの交響曲に似た感じを受けました。

 ヴァイオリン協奏曲ホ短調ですが、ソリストはダニエル・ホープです。ダニエル・ホープ
はメンデルスゾーンの師であったカール・フリードリヒ・ツェルターの末裔だそうで、その
意味では今回のヴァイオリン協奏曲は適任なのかも知れませんが、個人的にはちょっと外れ
た演奏(聴く側の期待を裏切った演奏内容)をするバイオリニストだとの印象をもちました。

 ジャクリーヌ・デュ・プレ以来最もエキサイティングなイギリス人弦楽奏者との評判もあ
りますが、個人的には好きになれません。このように思えた背景に、今回の演奏が初稿版に
よるものであった影響があると思います。

 いつもの聞きなれた曲の流れと異なるものがあると、曲全体のイメージが壊れてしまい、
せっかく良い場面があったにも係わらず全てがクリアーされてしまうような感じでした。歴
史的に価値があるのだと思いますが、音楽は内容が充実して初めて心に響く芸術なので、完
成度の低い初稿版のものは避けてほしいと思います。

 アンコールは、ラベルのカディッシュでした。カディッシュとは死者への祈りの歌を示し
ていることから、全体的に神秘的で清浄感に溢れた神秘的な内容の曲でした。この曲の解釈
は素晴らしいと思いました。確かに才能を持ち合わせた演奏家だと思います。

 全体的には、クリストファー・ホグウッドの魅力が前面に出された演奏会でしたので、満
足でした。可能であれば1曲位はモーツァルトの曲を入れて欲しかったと思うのは、私だけ
ではないと思います。

■ あっという間の夏休み(愛犬ミルクとの9日間)!!

2009-08-30 10:46:30 | Weblog

 先日まで夏休みで9日間のんびりと過ごしました。普通であれば何処かへ旅行にでも出掛
けるのだと思いますが、事情があって愛犬ミルクと自宅で過ごしました。

 掃除・洗濯・食事の用意や庭の手入れ、そして愛犬との散歩と、結果的には忙しい毎日を
過ごしました。掃除・洗濯・食事の用意は、意外と大変でしたが後半になってくると、それ
ぞれどのようにやると効率よくできるかを考えるようになり、ちょっと楽しくなるようなこ
ともありました。

 特に大変だったのは食事です。いつも用意されたものを食べるだけの生活から、自ら食事
を作らなければならないので大変です。難しい料理はできないので、冷凍品を解凍したり枝
豆やほうれん草を湯がいたりするもので、いたって簡単な料理ばかりでした。

 休みの前半は、まあまあこれらの方法でなんとか食事らしいものを食べていましたが、毎
回同じような内容になってしまうと、不思議なもので体が受け付けなくなります。最後は枝
豆をつまみに、普段ほとんど飲まないビールで夕食の代わりとしてこともありました。

 単身赴任していた時は、寮母さんが居たので土日を除いて食事の心配はなく、今回初めて
食事を準備する大変さを身をもって体験した次第です。食事の準備に時間がかかる半面、食
べる時間はほんのちょっとで、最後に片づけるのにまた時間を要することから、食事をする
際には心から味わって食べることが大切だと実感しました。何事も本当に良いところは一瞬
で過ぎ去り、反対にそれまでにするためにつぎ込む時間が多く、苦労があるものです。

 今回の休みの中で、読書と今まで貯め撮りしていた映画等をゆっくりと鑑賞することがで
きました。読書は、仏教関連の本で特に禅に係わるものを読み、その奥の深さに感激しまし
た。仏教には現在13宗派があるとされていますが、その中でも日本の禅宗は、日本人の根
底にある考え方に合致しているような気がしています。

 もともと禅宗は中国で始まったとされていますが、現在はほとんど日本に定着した禅宗が
世界に広がっています。自らの中に仏の心があるとする考え方は、何故か共感を覚えるとと
もに、真実であるような気がします。この点が仏教に興味を持ちさらに勉強するきっかけと
なりました。

 また、今回老子と荘子に関する本を読みましたが、禅の発祥地である中国の思想である老
子と荘子の考え方は、禅に近い考えであることも驚きでした。

 最後に「アマデウス」を久しぶりに観ましたが、モーツァルトの生き方を描いた映画であ
り、個人的には何回みても飽きないものです。また、この映画を見てモーツァルトが大好き
になり現在に至っているのも事実です。

 仮にこの映画を観ずに現在に至っているとすると、モーツァルトには全く興味を持たずに
音楽全体を聞き流していたかも知れませんし、今の自分と異なる人生を歩んでいたような気
がします。何事も出会いのきっかけとは不思議なものだと思います。

 この夏休みは最低限の仕事だけをし、あとはすべて個人のために使いました。その意味で
は有意義な9日間の休みであったと思います。普段は愚妻にべったりの愛犬ミルクですが、
この9日間は凡夫の私だけであったので、自然となつきました。その意味でも意義があった
夏休みでした。

■ 映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」を観て♪♪

2009-08-29 14:48:47 | Weblog
 
 先日映画館で久しぶりに映画を観た。前回は単身赴任で三重に行っている時であったので、
ちょうど5年振りのことになる。もともと人の多いところに出掛けるのは好きではないが、
映画のタイトルからして、どうしても観たいものであったが、混んでいたらどうしようかと
不安に思いながら出掛けた。

 午後7時からの上映だったので、上映の30分前に着くように行ったが、何とがらがらで
532席ある劇場であったが、その晩に一緒に観賞した人は全体で30名程度であった。ま
た、シートもゆったりとしており、今までの映画館の中ではもっとも設備が充実していた。

 さて、映画の内容であるが作曲家ロベルト・シューマンとその妻クララ・シューマンと若
き作曲家のヨハネス・ブラームスの間に繰り広げられる、敬愛と嫉妬とそして音楽的な才能
を通じての賛美の世界が描かれているものであった。

 シューマンよりもブラームスの方が音楽的な才能はあると個人的に思います。シューマン
の音楽は、後期になればなるほど音楽の展開方法が極端な発想に基づいたものになるため、
私のような凡夫には付いて行けないかあるいは、理解できない内容のものが多い。

 モーツァルトのように音楽の流れが自然ではなく、常に異なる次元へ飛躍するような感じ
を受ける。ただ小さなピアノ作品には、素晴らしいものがあり大好きである。

 最期はライン川に身を投げたとの話は昔から知っていましたが、映像として作られた映画
作品を通じて受ける印象は、想像以上のものがあった。狂気の世界の中で作られた音楽作品
であることが分かり、別の意味での哀しさを感じた。

 だんだんと狂気のレベルが高くなる中で、ロベルトを献身的な対応で惜しみなく続ける妻
クララの行動には頭が下がります。このような献身的な行動の基本に、人間としての献身愛
があるのだと思いました。

 以前に本を通してクララの音楽的な才能の高さや純粋な生き方に関して知りましたが、普
通の人間には出来ないものだと思っている。ブラームスがクララに憧れる真意が良く分かる。
またクララもブラームスの才能を十分に理解しており、相互に魅かれるものがあったとされ
ている。

 ロベルト自身もブラームスの才能を認め、機会ある毎に自分の後継者であることを周りに
紹介するなど、この3人の間の人間的な関係は非常にデリケートで、また複雑な力関係が働
いていた。

 ロベルトの死後、ブラームスはクララに求愛するが決してブラームスと結ばれることなく、
相互の敬愛のもとの関係が続いたとのことです。映画の中でベッドシーンがありましたが、
ブラームスは「僕はきみとは寝ないよ。それでも、きみをこの腕でずっと抱き続ける。命が
尽きるまで。きみが死んだら後を追う。死の世界へお供する」と囁く場面を見ながら、クラ
ラを抱かないブラームスに対して、本当の心はどうなのか聞いてみたい気がしました。あま
りにも純粋すぎる話は窮屈で、人間とは思えない神のレベルだと思う凡夫の私です。

 その後、クララとブラームスの友情は、クララの生涯の最期まで続き、クララの死後から
数ヵ月後に、生前の約束通りブラームスもまた黄泉の国へと旅立っていったとのことです。

 映画の中でのブラームスは、陽気な青年として描かれていましたが、本来のブラームスは
内向的な性格であったと言われているので、少し戸惑いました。映画「アマデウス」程では
ないですが、少し角度の異なる視点から捉えて表現したブラームスであると思いました。

 私であれば、もう少し気難しい雰囲気を出しながら、クララに接するような描き方をした
と思います。この映画の監督ならびに脚本が、ヨハネス・ブラームスの叔父から連なるブラ
ームス家の末裔に当たるヘルマ・サンダース=ブラームスであることを考えると、このよう
な表現になるのかと思った次第です。

 最終的な感想ですが、もっと泥臭い人間を描き出せば、さらに大きな感動が得られたと思
います。全体的に清潔で純粋さが根底にある作品でした。お勧め度は「普通」といったとこ
ろです。

 映画館を出て少し歩いたところに立ち呑み屋があり、ちょっと誘惑に負けそうになりまし
たが、横目でみながら帰宅しました。正直な気持ち、やはりモーツァルトが最高です。その
次がブラームスだと思います。

■ 自分以外に対する思いやり!!

2009-08-08 10:54:37 | Weblog

 昨年9月のリーマンショック以来、世界中の経済が不安定化し、かつ成長が大幅に鈍化し
た。この影響を受けて多くの企業が打撃を受け、経営状況が悪化した結果、買収されたりあ
るいは事業を廃業したりする現象が起きている。

 経済が停滞すると、人間の生活様式も大きく変わらざるを得ない状況となる。一例として
は、プライベートブランドのような価格の安いものが注目され、贅沢品とされていたものの
販売が激減した。生活防衛のために取るべき結果の現われであると思われる。

 しかし我々庶民はそれほど困っていないのが本音だと思われる。確かに失業率は高く今だ
に職に就けない人がいることは事実であるが、今の日本では生活レベルを少し下げれば、ど
うにか暮らしていけるのが実態でありまたそれだけの力はあると思う。

 昔は生きていくために必要な最低限の物の確保が大きな問題であったが、今は反対に物が
溢れている状況だと思う。したがってどうしても必要なものだけを購入する行動に出ている
のだと思う。

 政治家はマニフェストを掲げ、今月末の選挙に臨む準備を進めているが、政権交代して日
本の政治が本当に変わるのだろうかとふと思うことがある。そもそも国民自体が自ら政治に
係わって日本の国を良くしていこうと本心で思っている人がどれほどいるのだろうか?

 日本人の生き方として、自分がやらなくてもきっと誰かがやってくれるから大丈夫だと思
っている輩が多いのが現状だと思う。これは国に対してもまた企業や自分が住んでいる地域
でも全く同じことが言えるのではないかと思う。

 確かに自分の存在意義が最終的に最も重要なものだと思うが、個人が発揮できる力の数%
でも自分以外の目的ために使ったとしたら、この日本の国は劇的な変貌をとげるのではない
かと思っているが、皆さんはどのように思われるだろうか?

 いまいち世の中において真剣さがないと思われる現象の現われの例として、TV番組の内
容の多くがクイズとお笑い系であることがあげられる。番組制作コストが安いのかどうか知
らないが、どの番組も同じような内容であり、それを見ながら国民が楽しんでいる異常さは
少し不気味である。

 このような時代であるから少しでも明るくという趣旨なのか知らないが、このままでは日
本は確実に世界の中で脱落する国になってしまうと思う。

 今の日本人に欠けているものの一つとして、自分以外に対する思いやりがあげられる。こ
のような心が無くなりかけている背景には、日本の教育の中に課題があるような気がしてな
らない。変な理屈でゆとり教育が出てきたり、制度や環境が揃っていないのに英才教育を進
めるなど、地に足がついた行動をとらないところに大きな原因があると思われる。

 過去の歴史が物語るように、全ての人間が満足する社会的なシステムやそれを支える仕組
みの構築は困難である。唯一可能なのは、人間としての生き方の明確化だと思う。人間の幸
せを物と心で図る尺度としたらどちらが本質的なものであろうか。私は、それは絶対に心だ
と思っている。

■ 才能ある音楽家を育てるために周りが行うべき事♪♪

2009-08-02 18:46:15 | Weblog
 
 米国テキサス州フォートワースで開かれた第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクー
ルで盲目の日本人ピアニスト辻井伸行が優勝したニュースが6月上旬に流れたので彼の名前は
多くの方に知られる存在になった。

 正直言って私は彼の存在を今回のニュースで知ったのが初めてであった。幼少の頃から音楽
的な才能を発揮し、日本だけでなく海外のオーケストラとも共演をするなど、如何なくその実
力を発揮し素晴らしい音楽を多くの人に届けている若者だと思う。

 先日彼の公式ホームページを見てみると、今後のスケジュールがびっしりと詰まっており、
各方面から引っ張りだこの状態が続いている。たぶんこの状態が今後も続くとしたら、そのう
ち彼の音楽の中身が薄くならざるを得ない状況になると思うのは私だけだろうか。

 演奏するためのエネルギーを蓄積し、そして会場で全てを発散するので普通あるが、この繰
り返しが短ければ短いほど、充電式のバッテリーの寿命が短くなるように、彼の精神的なエネ
ルギーは弱ってしまうものだと思う。

 意地悪な言い方をすると、マスコミや音楽事務所、さらにイベントを企画する商魂たくまし
いプロフェッショナルに踊らされて、本来の才能を摩耗しないようにして欲しいと願っている。
また、演奏を聴く側もただマスコミに踊らされてチケットを購入しているようでは問題だと思
っている。

 彼が盲目であるという境遇に同情し、コンサートホールに行かないようにして欲しい。なぜ
ならば、音楽会はピアニストの心の音楽を聴くのが目的であって、音楽の本質の前に盲目であ
るという事実はなんら関係のないことだからである。

 これは、聴く側の姿勢の問題である。この聴く側の姿勢を狂わす要因として、マスコミの過
剰な報道があげられる。普段クラシックの話題を提供しない番組が、あたかも以前から取り組
んで来たかのように全面的に取り扱う行動には閉口してしまう。

 従来通り、お笑いやゴシップだけを扱っていれば良いものを突然にクラシック音楽を前面に
報道して欲しくないと思う。このような異常な取り上げ方で、CDの売り上げも他のミュージ
ックと同じようにクラシックとして異常な販売枚数を記録したようだ。

 今までクラシックを聴かなかった層が聴くようになったのであれば良いが、なんとなくファ
ッションや単なるブームに乗って購入した層が多いように感じられる。

 彼のような才能のある人材を壊してしまわないように、時には厳しくそして感動した時は大
きな声援を送るような流れに是非ともして欲しいものである。過去に、フジコ・ヘミングも今
回のような現象が起きたのは記憶に新しい。

 ほんのちょっとしたことで、才能ある人材が消え去ってしまうことが多い時代なので、聴く
側の姿勢も含めて、彼を支援する気持ちを引き締める必要があると感じている。