裁判に情緒を持ち込むな。

2009-06-18 16:05:01 | 社会
にじ:裁くことの重み /愛知

アクリル板越しに面会した男性は穏やかな表情だった。

数年前、殺人罪などに問われている男性に名古屋拘置所で面会した。
10代後半の時に犯した罪で10年以上拘置所で過ごしていた。
表情から険しさが消え、人をあやめた人物という面影は見当たらなかった。

被害者や遺族への謝罪を述べ、
「生きて罪を償いたい」
と打ち明けた。

男性は名古屋高裁から死刑判決を言い渡され、上告している。

5月21日から裁判員制度が導入された。
殺人などの裁判に一般から選ばれた裁判員が参加する。

私が裁判員に選ばれる可能性もある。
もし、男性の裁判で
私が裁判員だったらどのような判断を下しただろうか。

人命を奪った結果の重さや遺族の悲しみを重視したか。
生きて償いたいとの男性の言葉に更正の可能性を見いだしたか。

拘置所で面会した男性は真摯(しんし)に反省しているように感じた。
彼の姿勢は、長い拘置生活で、死刑を求刑された中で罪と向き合い、
はぐくまれたのだろう。

 人を裁く時、何が正しいのか。正解は見当たらない。【加藤潔】

毎日新聞 2009年6月18日










この男性の犯罪がどのようなものであるか判らないが

10代後半の犯行で死刑判決であれば、

相当のことをやったのであろう。



例えばそれが

こんな事件であったとすれば、



私は

『死んで罪を償ってください』と

判断する。




償うということはその代償を払うということだ。


彼に払える代償はその『死』しかない。





記者が何を言いたいのか良く解からないが

私には

裁判に「情緒」を持ち込んで

死刑制度を批判しようとしているようにしか見えない。



また、事件の内容も伝えずに

『死刑はかわいそう』という訴えかけは

卑怯である。




更には、

被害者側の視点にほとんど言及しないのは

片手落ちであり



『何が正しいのか?』などと語る資格は


、、、、、全く無い。


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17 コメント

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生きてどうやって??? (呂真似屋)
2009-06-19 09:20:54
おっしゃる通り 10代後半で、死刑の判決という事は、それなりの事を犯したのでしょう
我国のような罪に対する刑が軽すぎる国での判断でしょう 生きてどうやって罪が償えると言うの? 改心したんだって???ふざけるな
と言いたい 潔く死にやがれ!!!
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満喫 (P@RAGAZZO)
2009-06-19 10:48:59
呂真似屋さんこんにちは。

その通りだと思います。
彼の罪の代償として
『申し訳ないという気持ちを持ちつつ生きる喜びも満喫する』事は
許されません。

死を以って償うのみです。

改心したとかしないとかは、
被害者やその家族にとって、どうでも良いとは言いませんが
第一次的なことではありませんね。
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Unknown (MIIKO)
2009-06-19 14:22:57
誰でも拘置所など長期に渡り拘留されているとまるで犯罪など犯していない風体に変化していきます。これは、紛れもなく錯覚です。一歩外にでればそれなりの人物なのです。
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地の顔 (P@RAGAZZO)
2009-06-19 14:37:07
MIIKOさん、コメントありがとうございます。

私も同感ですね。
犯罪者が更生を装っているという事ではなく、
刑務所内ではそれこそ『更生』しているのでしょう。

しかし、外に出れば『地の顔』が芽を出す
ということだと思います。

犯罪者の再犯率60%がそれを物語っていますね。
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Unknown (翡翠)
2009-06-19 17:17:55
厚かましいですね。
本当にどんな犯行だったのか記さないのは
卑怯だし。
生きて罪を償うなんて、「どうやって?」
と不思議に思います。
自分の罪を本当に悔いるなら自ら
「死んでお詫びを」とならなきゃおかしい。
やはり。こういう精神性の人間だから
加害者になるのですね。
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加害者と被害者の命 (桃太郎)
2009-06-19 19:46:44
おじゃまします。

重い話になりますが、少し書かせてください。

私は10年前、歩道側の駐車車両の陰から老人が飛び出したのに気づかずに撥ねてしまい、
結果的にその方は外傷性ショックで亡くなり、私は業務上過失致死で警察に連行されました。

飲酒でも速度超過でもなく、自身では晴天の霹靂でしたが、加害者になったのはまぎれもない
事実。 どんな言い訳もするつもりもなく、調書では取調べ官の言いなり。 絶望感に満ちて
放心状態でした。

ただお願いしたのは、遺族と本人に直接謝罪したいということ。 しかし警察署では「家族の
感情を考えたら無理」という理由で却下。 しかし私は「殺されてもいい」と思い地元有力者に
懇願して身元引き受け(親族はダメですから)になってもらい、通夜、葬儀ともに出席しました。

妻には、遺族に死ねと言われたら死ぬ覚悟だということを伝えていましたし、死することを私も
覚悟して、あえて世間に身を晒して罪を償いたいと本気で思いました。 あのときの四方八方
からの針の視線は今も忘れられません。

しかし弔問客からのバッシングとは異なり、遺族は温かかったです。 
検察には「罪は償ってもらうが彼の将来まで奪う気はない」と言ってくれました。 泣きました。

不起訴になっても私はひとりの方の生涯をこの手で閉じてしまったわけで、刑事罰はなくとも
私の生涯をかけて償おうと、保険金の他に当時のわずかな財産(預金)と限度までの借金
(千万単位でした)をして支払いました。 いまも月々の返済日に当時のことを思い出します。

すいません。 横道にそれました。

言いたいことは、被害者に与えた報いは無条件で受け入れる覚悟を加害者は持たなければ
ならない、それがたとえ過失であったとしても。 ということです。

今回の加害者は犯した罪の重さを入獄後に認識したのかもしれませんが、犯した罪は消えま
せんし、被害者も二度と帰ってきません。 覚悟をもって刑を受け入れてもらいたいと思います。

また、今回の記者の記事は報道という立場でありながら、公平を期す取材をしていないことを
とっても論外ですが、やはり被害者の感情を無視して他者が罪について言及することに不条理
を感じます。 

Pさんのタイトルにある‘情緒’で私は救われたのかもしれませんが、そこに異論はありません。
司法は感情に流されることなく粛々と判決を導けばいいと思います。 

失礼しました
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森達也 (P@RAGAZZO)
2009-06-20 10:57:40
翡翠さん、こんにちは。

この記者の書きようを読んで、
森達也の著書『死刑』を思い出しました。

森はあたかも中庸を装って
死刑囚との面談や彼らの刑務所内での日常を描き、
死刑囚の人間性を情緒たっぷりに訴えかけます。

しかし森もまた、
被害者側の感情や置かれた状況、主張などにはほとんど触れず、
死刑囚側にぴったりと寄り添った論旨に終始するのです。

他人を恣意的に虫けらのように殺しておいて、
自分の場合は『生きて、、、』などは、
あまりに身勝手と言えますね。
返信する
ありがとうございます。 (P@RAGAZZO)
2009-06-20 11:26:53
桃太郎さん、こんにちは。

お話になりづらい事をコメントいただきまして、
本当にありがとうございます。

不可抗力とはいえ
おひとりの命を亡くしてしまった結果になったことは
悲しいことでしたね。

また、桃太郎さんの当時の苦衷の心境を察することは
私などの想像力ではとても及ばない思いがします。

私のエントリーにある死刑囚と
桃太郎さんの違いはハッキリしています。

それは、
加害者が第一義に考えている事が
『被害者側のお気持ち』か
『自分自身の境遇』かであると思います。

桃太郎さんは
最後は自分の命を差し出してでも
『被害者側のお気持ち』に応えようとした。

エントリーの死刑囚は
まず『自分は生きたい』があり、
悪く言えば、
ついでに『被害者に償いたい』と考えているということです。

桃太郎さんの場合、
その桃太郎さんの『真意』が相手様の心を打ち、
柔らかく迎えてくださったのだろうと思います。

もし件の死刑囚が
『被害者の方々のご冥福を心から祈りながら死の途につきます』
と発言していたとしたら、
無論死刑は免れませんが
彼の『誠意』は感じられたのではないかと思いますね。

つらい話題をお話くださいまして、本当にありがとうございます。
亡くなられたご老人のご冥福を私もお祈りいたします。


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桃太郎さんへ (はてな人)
2009-06-20 15:12:46
桃太郎さんのお話は少し理解に苦しむ点があります。

あなたは自分がいかに真摯な反省と真心をもって被害者遺族の方々に接したかをおっしゃりたいのですね。
ですが、あなたに多少の不注意があったとしても、亡くなった老人の方は駐車車両の陰から飛び出したのが事実なら、あなたの過失は決して大きいものじゃありませんね。
その証拠に相手の方が亡くなっているにかかわらず、あなたは不起訴だったのでしょう。
仮に被害者遺族が悪感情を持っていないとしても、被害者が死亡していれば通常加害者が不起訴と言うことはありません。
あるとすれば加害者の過失が無いか、あるいはかなり小さいからです。
それでも人一人の命を奪ったという事実に加害者として極限まで真摯に向き合ったというお話は、まるっきりでたらめなどと言うつもりはありませんが、保険金はそれなりに降りたはずですが、ほかに千万円単位の借金までして遺族に支払ったとか、死ねと言われたら死ぬつもりだったとかは、ちょっと耳に違和感を感じました。
それと、ご遺族への謝罪の場面ですが、警察が遺族に対する謝罪を引きとめるなどということはあり得ましょうか。
遺族が怒りのあまり謝罪を受け入れないということは往々にしてあるかもしれません。
でも、謝りたいという加害者の謝罪を警察が却下したという表現は信じにくいです。

ま、そういうことであなたのお話は、失礼ながらちょっと眉に唾をつけ読ませていただきました。
ただし、あなたが本当におっしゃりたい核心事項と申しますか、「己のための謝罪や償い芝居は許されない。」という趣旨には同感しています。
とんでもない極悪非道な殺戮をしておいて、格子の陰から「生きて償いたい。」などとほざいても何の償いにもなりません。
Pさんじゃありませんが、未成年の時の犯罪で死刑判決を受けたのなら、そりゃよっぽどひどいことをしたに違いありません。
死刑を受け入れる以外に何の償う方便がありましょうか・・・。

返信する
Unknown (桃太郎)
2009-06-21 12:06:08
おじゃまします。

私へのコメントに対する‘はてな人’さんからのご指摘(批判?)がありましたので、大変
恐縮ですが補足の説明をさせていただけることをPさんにお願いします。


私の起こした事故ですが、当時私は公職にあったこともあり、NHKのニュースでも取り上げ
られました。 まぁ今の時代ですからこれだけの情報でも私を特定できるでしょうし、特に
書き込みに虚偽なことを書く必要性もありませんので、まず事故そのもの存在を疑われると
いうこともないと思っています。

また不起訴になった経緯を書けば長くなりますので省略しますが、実地検分などによる過失
割合のみでなく、地域の方々の減刑の嘆願署名も要因としてあったかと思います。
はてな人さんの書かれたように死亡事故での不起訴は異例かもしれませんし、私自身も思わ
ぬ判決でした。 

謝罪に関しての警察の対応ですが、事故の翌日ということと、遺族の感情を考えた場合に、
暴力的な事態を引き起こす可能性があるとういうことから、そのような場所へ出向くことを
控えるように言われました。 他にも事故の見分が終わらない段階での謝罪は不利になると
いう忠言もありましたが、ともかく直接に謝罪したいの一点張りだったので、それができる
手段をできる限りお願いして行くことができました。

この段階において私は自身の生涯を捧げる(‘捨てる’のほうが正しいかもしれません)と
いう気持ちを持ったと記憶しています。 遺族が「死んで詫びろ」と言えば、そうする覚悟
は持っていました。 冷静に判断すれば言い分を言っていい事故だったのかもしれませんが、
自身が遺族だった場合にどう思うのかを考えれば、過失がどうのということではなく、結果
責任を負うべきだと考えたのだと思います。 自身の減刑のために行なったという記憶は
いま現在も持ち合わせていませんし、事故直後にそんな冷静な判断ができるほど神経も太く
ありません。 咄嗟的にそう動いた。 そう自身では回顧しています。

こう書いた時点で「きれいごと」だと思われたのならば、もうこれ以上なにを説明しても
理解(共有)できないものと思います。 残念ですがここでスルーされてください。


保険金以外の私の追加補償については、保険会社も弁護士も納得しないものでした。
ただ私は、最大の償いは自身の命をもって償うと思っていましたから、そうならなかった
ことの代償に、当時の財産をすべて捧げることしか思い浮かばなかったです。 もちろん、
公職も翌日には辞職願を出し許可をいただきました。

私にも家族(妻・子ども3人)がいて将来が不安になり、実は自殺も頭をよぎりましたが、
いまこうして回顧すると、あそこでリセットしたかったのかもしれませんね。 読者には
失敬ですが、当時の思いを正確に記憶に残すことは難しいので回顧という形になってしま
います。 お許しください。


私の言いたかったことは、はてな人さんの言われるような趣旨(お酌みとりいただき感謝
します)もありますが、もっと根底には私の育った環境が古かった?り、体育会系だった
ことも要因かもしれません。 単純に「悪いことをしたら謝れ」「人を傷つけることは己に
も返るものと思え」「詫びるべきは誠意(命)をもって詫びろ」と祖父に教わってきました
から、理論というよりも自身の持つ感情(哲学?)が大きいのかと思います。

長々と書きましたが、はてな人さんをはじめ、私の書き込みで不快な感情をもたれたことは
私の不徳の致すところであり反省しきりであります。 

失礼いたしました。

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