学校給食費を払わない親が増えているそうだ。
詳しい数字は読者のほうがよくご存知だと思うのでここでは述べない。
私がここ問題にしておきたいのは、、、何故か?、なぜ払わない人がそんなに沢山居るのか?、、である。
払わないといっても経済的に払えない人の場合はこの場合問題ではなく、
社会が問題としているのは「払えるのに払わない人」のことであろう。
彼らの言い分は
「義務教育だから払う必要は無い。」
「給食を出すように頼んでいない。」というもので、
督促をすると
「給食を止められるんだったら止めてみろ」と開き直るそうだ。
新聞や識者は彼らを「無責任である」とか「規範意識が薄い」とか書いているが、
私はこういう人たちが出現したのは、ある意味“必然”であったのではないかと思っている。
私は1952年生まれのいわゆる戦後世代であるが、
子供の頃親にしきりと言われたのは「恥を知れ」と「卑怯な事をするな」であり
『私(わたくし)より公(おおやけ)を思え』というものであった。
この『私より公を重んじる』概念は、私が長じるに従い親たちも余り言わなくなり、
現代においてはそんな概念はいわゆる『滅私奉公→戦争』というロジックにストレートに当てはめられ誰も口にしなくなった。
つまり『公よりも私を優先すべし』と戦後教育は口を極めて教えてきたのだ。
そして今の小中学生の親たちの世代はと言えば私よりも一世代若く、
その親たち(今の小中生の祖父母)はもはや『私より公』などは口にすることも出来なかった。
彼らにとっては、国が困ろうが学校が困ろうが知ったことではない、
自分の権利、自分の損得こそが最優先すべきことであり、
「恥ずかしい」とか「卑怯」とか『私よりも公』をなど全く誰も教えてこなかったのだ。
私は“公と私のどちらを重んずるべきか”に於いては議論があって良いと思っている。
私個人の意見を言うならば、これは按配を要する問題であって、
例えば『ブッシュTシャツ』に於いては公を優先させるべきだし『ホームレスの現住所』に関しては私(というより個)であると思った。
それは生死にかかわる事に関しては、法や秩序よりこれを優先させるべきで、
全てを網羅して一律に語るなどは無意味であると考えているからだ。
ほんの数年前まで公と私の振り子は“私”に大きく振れていた。
今この振り子は“公”に振り戻し始めている。
「学校給食費不払い問題」というのは、その端境における歪みとしての現象がではないのだろうか、、
、、、と鼻毛を抜きながら、私はぼんやりと考えている。
詳しい数字は読者のほうがよくご存知だと思うのでここでは述べない。
私がここ問題にしておきたいのは、、、何故か?、なぜ払わない人がそんなに沢山居るのか?、、である。
払わないといっても経済的に払えない人の場合はこの場合問題ではなく、
社会が問題としているのは「払えるのに払わない人」のことであろう。
彼らの言い分は
「義務教育だから払う必要は無い。」
「給食を出すように頼んでいない。」というもので、
督促をすると
「給食を止められるんだったら止めてみろ」と開き直るそうだ。
新聞や識者は彼らを「無責任である」とか「規範意識が薄い」とか書いているが、
私はこういう人たちが出現したのは、ある意味“必然”であったのではないかと思っている。
私は1952年生まれのいわゆる戦後世代であるが、
子供の頃親にしきりと言われたのは「恥を知れ」と「卑怯な事をするな」であり
『私(わたくし)より公(おおやけ)を思え』というものであった。
この『私より公を重んじる』概念は、私が長じるに従い親たちも余り言わなくなり、
現代においてはそんな概念はいわゆる『滅私奉公→戦争』というロジックにストレートに当てはめられ誰も口にしなくなった。
つまり『公よりも私を優先すべし』と戦後教育は口を極めて教えてきたのだ。
そして今の小中学生の親たちの世代はと言えば私よりも一世代若く、
その親たち(今の小中生の祖父母)はもはや『私より公』などは口にすることも出来なかった。
彼らにとっては、国が困ろうが学校が困ろうが知ったことではない、
自分の権利、自分の損得こそが最優先すべきことであり、
「恥ずかしい」とか「卑怯」とか『私よりも公』をなど全く誰も教えてこなかったのだ。
私は“公と私のどちらを重んずるべきか”に於いては議論があって良いと思っている。
私個人の意見を言うならば、これは按配を要する問題であって、
例えば『ブッシュTシャツ』に於いては公を優先させるべきだし『ホームレスの現住所』に関しては私(というより個)であると思った。
それは生死にかかわる事に関しては、法や秩序よりこれを優先させるべきで、
全てを網羅して一律に語るなどは無意味であると考えているからだ。
ほんの数年前まで公と私の振り子は“私”に大きく振れていた。
今この振り子は“公”に振り戻し始めている。
「学校給食費不払い問題」というのは、その端境における歪みとしての現象がではないのだろうか、、
、、、と鼻毛を抜きながら、私はぼんやりと考えている。
昔、西日本新聞に「教育は今」という連載があった。それに内容は詳しく連載してあった。
自分たちの考えを聞いて欲しいなら、人の考えも聞くべきだが。それが民主主義のはずですが。 この矛盾どう説明するのかな。
日教組の組合員勧誘の実態や非組合員に対する嫌がらせは、
それは酷いものだったそうですね。
そういう事実は、
日教組が全盛の時には市井の人々には全く知らされませんでした。
今でも新聞やテレビはこの事には触れませんし報道しません。
先日の北教組の事も新聞、テレビは皆無。ネットニュースで辛うじてリリースですもんね。
これ、テレビでやったら相当反響あると思いますが、
新聞、テレビの報道の偏向をよく物語っています。
Pさんがおっしゃる「私」に偏った価値観を、今の保護者(私たちと下の世代)に与えたのは、僕の感想では学校の教員(たぶん組合員)ではありません。 自民党の政治家が所得倍増を唱え、列島改造を訴えました。すなわち「経済的豊かさこそ人間の幸せである」という「戦後の宗教」においては経営側も組合側も同じ穴の狢であったでしょう。個人あるいは、自分の家族が、自分の会社が、豊かになることが一番大切な事だったんでしょう。そういう価値観は「日教組」が主要にとなえたものではありません。
これが「日教組」の罪でしょうか。
僕が知っている熱心な組合活動をしている教員は「子どもを二度と戦場に送らない」ことを実践しようとしていたのでしょう。「天皇のために、国のために死ぬことは名誉なことだ」と教えたことを恥じていたのでしょう。自分が送られたことを怒っている人も居たでしょう。
もちろんそんな教員は少なく、多くの組合員はふつうの社会人でしたよ。
問題点を指摘することは大切なことですが、日教組の運動を論じるのであれば、その現象面だけでなく、どういう問題をめぐっての戦いだったのかが重要ですよ。
一般論ですが、ストライキはスト破りを許しては成立しないのです。だから、スト不参加者も、机が廊下に出されるぐらいは覚悟の上であったでしょう。死人が出てもおかしくないですよ。ストライキには「暴力団」が前面に出てくることもあります。
そういえば、日教組の大会つぶしに自称「政治結社」とやらが街宣車の大音響で登場してきますが、いったい誰が支えているんですかね。あの連中は「民主主義の敵」と戦うためにがんばっているんですか。僕の目には「民主主義」からもっとも遠くの方々に見えますが。
「給食費不払い」についてはまたの機会に。
>>そういう価値観(公より私)は「日教組」が主要にとなえたものではありません。
その通りだと思います。
私のエントリーをよく読んでいただければご理解いただけると思いますが、
私の言う「戦後教育」というのは先生も親も政治家も含めての社会全体の子供たちに対する教育を指しているのであって、
日教組という文字は一言も出ておりませんよ。
又、おれオレさんのコメントの真意は、
日教組は「公よりも私もしくは個の権利や自由」を唱えているにも拘らず、
日教組内では組織の論理が優先し個の自由は無い。
これすなわち矛盾ではないか、というものだと理解しております。
あかモグラさん、
日教組が隆盛の頃非組合員に対してかなりひどい仕打ちをしていた事は事実ですよ。
又彼らが「自分達は正しい、自分達は決して間違っていない」と言って、
全く他の意見を聞こうとしなかったのも事実です。
これは複数の非組合員の先生方に直接うかがった事があります。
戦前の教育で「天皇の為に死ぬ事は名誉だ」と教えていたとすれば、
それは戦争直前の異常な日本社会の中での士気高揚の為に行われた異常な教育であったのでしょう。
これは現代においても例えばパレスチナにしろヒズボラにしろ、
或いはアメリカ兵においても戦時に於いては類似の事をやっていますね。
しかし、現代の日本においての例えば私が指摘した「給食費不払い」などの問題は、
少なくとも振り子が「私」に振れ過ぎた為に起きた問題ではないでしょうか。
あかモグラさんの文面からもこれに対する明確な否定は無いので、
現状認識に大差が無いとすれば、
やはりココはもう少し公と言う概念を皆で教えていっても良いのではないかと思います。
もちろん振り子が「公」に振れ過ぎる事には充分な注意を要する、と私は考えています。