陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

ブログの「作者」と「読者」との偏差

2024-06-12 | PC・通信・情報・メディア・SNS

ブロガーさんのなかには「ブログ訪問できません」「ポチ応援できません」とわざわざ断り書きを入れている方もいます。常日頃、それを日課にされていたが、諸事情でできなくなってしまったため心苦しいお気持ち表明なのでしょう。律儀ですよね。

私はgooブログにある評価ボタン導入以前からのブロガーのため、いいね押しに馴染みがありません。そのため失礼ながら、極力押さないようにしております。

押さない理由は、私が来た痕跡が残ってしまうと、相手先に訪問返し、いいね返しをしなくてはいけないという義務が発生してしまうからです。
押す場合であっても、全種類ではなく、なるべく一回のみにとどめています。編集画面上に私のアイコンだらけで他の訪問者が見えなくなってしまうからです。

私はgooブログアドバンス加入者ではないのでよくわかりませんが。
アクセス解析時の訪問者のアイコンは一定時間で消えてしまいます。評価ボタンを押せば痕跡が残りますよね。

でも、私、この評価ボタンに疑問があります。
私も覚えがありますが、うっかり二度押しすると消えてしまうのですね。だから再度押しする、すると同じ評価ボタンなのに二人でカウントされてしまうみたいなのです。しかも、自分の記事にも押せたりできますよね。人数でカウントする必要あるの?

評価ボタンの人数が多い方はそれだけ相互交流されている方なのでしょう。
どなたかのブログ記事から感化されたり、気づきを得ることはあります。けれども、交流すればするほど自分の記事を書く時間の確保が難しくなりますよね。

この問題は、ツイッターやフェイスブックのようなSNS隆盛の前の、ブログ間のコミュニティサイトで出会ったブロガーさんも指摘していました。蜜を求めてあちこち花を移るミツバチになるよりは、蜜は出ないけれども誰かの足をとめたくなる草木でありたい、そんな自ブログに腰を落ち着けてブログ運営をしたいという方が。当然、私が気が合うのはそういう方々でした。

その相手先の記事の中身にまったく興味などないけれど、相互ポチ応援してくれる気前のいい方だから互いに交流している。そういう割り切ったブログ運営でも、私は構わないと思っています。でも、私自身はそれをしません。ブログ活動は、対価を得るビジネスではないですから。

ブログのみならず、ツイッターでもVなんとかがつく動画配信者でもそうですよね。
インフルエンサーと呼ばれる方の表現物と、プロの方のそれとを比べてみた場合、どちらに付き合った方が豊かな時間が送れたと感じるか。タダで読めるものは所詮誰にでも書けるものでしかないのはないか。これは自分のブログにも言えることです。

江戸時代には、農村舞台と言いまして、百姓が閑散期に役者に扮してお芝居をするという風習がありました。京や江戸のような華々しい歌舞伎や能などは庶民には縁遠かったけれども、閉鎖的な田舎には田舎のお付き合いと娯楽があったものです。労働とのバランスがとれた息抜きが許されていたわけです。

けれども、今ですと、そうした趣味や個人の嗜好それ自体がその人のアイデンティティやら仕事になったりもします。ルネサンス期のメディチ家よろしく、かつての富裕層やら権力者によるパトロネージュはなく、選挙のような公平な、大衆人気によって、その人の価値が決まってしまうような趣があります。

「推す」とその人に貢献したような気になれます。
そうしたファンの好意を利用したような投げ銭システムまで、SNSに標準装備されるようになりました。お金でなくとも、自分への評価、自分にかけてくれた時間を「稼ぎ」たくなるんですよね。でも、いつかそういうSNSなり、ブログなりのプラットホームがなくなったとき、自尊心を支えてくれたものは消えてなくなりますよね。

この時代は、もはや誰もが「読者」から「作者」へシフトチェンジできるのです。
ただ書き続けるだけで、何かを発言するだけのみで、注目される人がいる。同じような倫理的にすばらしい発言をしていたとしても、めったとない興味深い思いつきを口にしたとしても、フォロワー数が多いほうが言うことのほうが正しいと支持されてしまいます。誰かの意見をパス回しさえしていれば注目される、そんな事態が。

でも、この「作者」化した個人というのは厄介なものです。
担ぎあげられて神輿の上から見下ろしたひとの顔が見えなくなります。たまに芸能人やら政治家やらを自分に振り向かせようとして目立つ行為をしたり、本人とは違った解釈を流してみたりしてそのご本尊のイメージを損なったりもします。オタクにはよくありがちですが、自分の興味に他人をむりやり引きずり込もうとさえするし、界隈のルールは法律よりも正しいと思い込みがちになります。多数決で押し上げられた「作者」とはそういうものです。だから、某大臣がで自分をブロックしたから許せない!なんていうツイッター民が出てくるわけですよね。政治家の本分はネット上での人気取りではないのですが、気持ちのいい反応をくれないと自分は相手を信用できないという謎の取引を据えている方が増えているわけです。いくら、SNSがアラブの春のような民主化運動の原動力になったと言いましても、ゆがんだ民主主義に思えてならないわけです。

SNSとは、「作者」と「読者」との偏差をなくすものです。
うまくすれば、誰もが有名になれてしまいます。しかし、ツイッターならいざしらずブログでは基本ブロガー同士は対等な「作者」だという認識で、「読者登録」なんていうフォローシステムがあるものですから、主客の転倒が生じやすい。あの人は私のブログの「読者」なのに、なぜ日参してくれないのか、応援してくれないのか、という不満もくすぶりやすいものなのでしょう。あるいは、他の人へは応援しているのに自分は応援してくれないの、だとか。そういう苦情を見かけたから、わざわざ、訪問や応援は控えますの御断り書きも必要になるのでしょう。あちこちのブログを訪問しまくっているひとが、自分にだけは誰それさんのポチ応援が回ってこないのに、とほぞを噛む。そんな見えない痛みのために、配慮が必要になってきて、しまいに自分がブログ活動をエンジョイすることすらままならなくなります。

正直、応援だけほしいのならば、かつてのブログ下部にあったようなアカウント無しで誰でも押せるボタンでよかったはずなのです。私たち読者は、相手に知られないはずの「透明な読者」としていられたはずなのですから。けれども「作者」であるという自意識を持ちはじめた読者は、いつか自分が何かを好きだと表明したり、熱烈に応援したりするにしても、誰かの、複数の、後ろ盾がないと自己の弁明に自信が持てなくなってしまいました。それはもはやほんとうの「作者性」の喪失なのではないでしょうか。

そういうわけですので。
拙ブログへのご訪問やらポチ応援やらはご自由で、読者登録も飽きましたら外してくださって構いません。そもそも私の嗜好(とくにサブカル関係の)は、gooブロガーさんとは隔たりがありますし。趣味のジャンルが近接しているからといいまして仲良くなれるわけではないのです。いちばん困るのは、勝手にフォローしたり訪問しているからと、相手にもお返しを求められることです。正直、自分が愛読しているブログさんが交流疲れで更新止めますなんてほうが、読者のこちらとしても困ります。

なまじ、ブログを生身の人間が更新しているものと考えてしまうから情が湧いてしまうわけでして、どこかの他人が勝手に更新しているデータと認識すれば、さほど意識しなくなります。本もそうですが、「作者」の存在感があまり見えない方がストレスもなく読めるのではないでしょうか。

(2021/09/26)


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