
暑くるしい日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
はい、今回もいかがわしいお話を一席。
やはりといえば、やはりの熱を帯びそうな話題を。
二次創作者、とくに女性による描き手で、よく「受け」「攻め」という言葉を聞きますね。カップリング表記にルールがあって、A×Bとあったら、Aが攻め、Bが受け、らしいです。
「美少女戦士セーラームーン」シリーズの、セーラー戦士ウラヌスとネプチューンのカップルがセンセーションを起こしたとき、「ウラネプ」とか「はるみち」とか、一見何の略称かわからなくて驚いたことがあります。名前の頭をとって、組み合わせているんですね。
この受け攻めの但し書き、かなり重要らしいです。
今更説明するまでもないのですが、「攻め」はぐいぐい積極的で、「受け」はリードされる方。ABだとAが男性的な立場で、Bは女性的な立場、と言えばわかりやすいですね。別に床の上のお話ではなくて、プラトニックラブめいたエピソードであっても、これをはっきりさせておかないといけないらしい。なぜなら、同じAとBが出ていても、ABとBAとでは、たいそうな違いがあるからとか。
私の二次創作物では、この表記、あんまり気にしていません。
ABと書いているけれど、単にAとBが仲良く登場しますよ、という触れ込みなのであって、どちらが主導権握るとか、護られたい側になるとか、そんなのきっちり固定しなきゃいけないのだろうか、と思うわけです。Aは完璧なようでいて結構抜けているとか、頼りない受け身のBが奮起して頑張り屋のAを助けるとか、そういうギャップ萌えではないですが、意外性を発見するようなお話が好みだったりするので。
自分の手掛けた二次創作をA×Bです、という紹介のしかたにも違和感があります。
アイスクリームのトッピングを選ぶみたいに、A×Bです、という。AとBで演じられた世界で、何を世に訴えたいのかが見えてこないのではないか、という気がする。A×Bと名づけられた絵や物語は、他のC×Dでも成立するものかもしれない。『マリア様がみてる』の原作小説に、二条乃梨子が姉の藤堂志摩子に対して、「世界は二人だけで構成しているわけじゃないのよ」と語る場面があります。スール(姉妹)という「あなた」と「わたし」だけのペアがシステム化されたその物語世界でも、作家は「二人だけ」の閉塞性に警笛を鳴らしているわけです。それでも、A×Bです、と紹介せざるを得ないのは、その二次創作者が排他的なグループへの帰属意識を表明することによって、自己のアイデンティティを確立せざるを得ないからです。
そもそも最初から設計されたように、Aはかくかくしかじかの性格なのでこういう動きしかしない、という取り決めでいいものか。人間には多面性があります。
元気で陽気で活力あふれる人が、いつまでもそのままであるとはいえない。
持ち前の知性や倫理観は時代が変わってしまえば、曇るかもしれない。ひとに惹きつけられ魅力にしばしば幻滅し、こんな人ではなかったのに、と思うとき、身勝手にも私たちはその人本体ではなく、その周囲に沸いた霧のような幻想に蠱惑されていただけなのかもしれません。憧れとか尊敬とかからはじまる、上位者に対する愛情の一種は、しばしば、あっさりとひっくり返された侮蔑に置き換えられやすい。上位者に対する劣等感とないまぜになった憧憬は、自分がその立場を奪うことで満たされてしまうからです。
そもそも、ABの話ですよ、とわざわざ前書きに書かなきゃいけないものなのだろうか。
ABでくっつくかと思われたけど、実はACになっちゃいましたとか。でも二次創作は、このキャラのお話が欲しい、こういう結末になってほしいというのが読者のニーズなので、期待を裏切っちゃいけないのですね。読者があらかじめ具体的に端々まで固まって妄想できてしまうなら、そもそも二次創作自体いらないのでは、と存在論的な結論に至ってしまうのですが。特定のキャラクターが書きたいというよりも、そのキャラたちが置かれた環境を風景画のように書きたいとしか思わない私は、このカップリング表記に無頓着になってしまわざるをえない。
で、このルールを忠実に守れる、というか守らざるを得ないのは、同人屋さん。
とくにメジャータイトルで、ファンは多いけど、カップル数もさまざまで、さらにはその受け攻めでも細かく分類されてしまうので、かなり注意されているようです。カップル表記だけでなく、地雷となるような要素(殺人があるとか、グロいとか)も明記しておかないといけない。クレームは怖い。お金が絡んできたら、誰しもひとは気が荒くなります。A×Bですよというラベリングで、自己の嗜好を守らなくてはいけなくなる。
だいたいアブノーマルラブなので、けっきょくどっちが男役、女役かを決めておく必要があるのかもしれません。その役割に縛られているのは、窮屈な気がするのですが…。自分はA攻めB受けが好きなのでそれを書き続けますよ、という意思表示をしておくのはよいのですが、わざわざ、他人の作品を読んだのちに「A×Bでないから駄目」という存在否定はしなくてもいいのではないでしょうか。大勢の中に隠れて、そっと石を投げるみたいに。
AとBが出てくる話だけど、受け攻めが私の好みと逆だから受け付けないという硬直した意見は、支配/被支配関係を暗黙裡に望んでいるように思います。私はこれこれの役割だから、最大限ここまでしかしませんといった一線を引いてしまっている。どちらもがともに自立した対等な関係であるべきなのに、立場の強弱とか行動の軽重とかをとくに同性のあいだで取り決めておかねばならない心理的背景には何があるのか。「…であらねばならない」「…でありたい」という枠にはまった生き方について葛藤していく姿なのかもしれません。
ちなみに海外の二次創作小説とされるファンフィクションでも、この表記、かなり浸透しているみたいですね。タロウ×ハナコだったら、T×Hみたいに。でも、順番にまでこだわっているのかどうかはわかりかねますが。
それにしても、このルール、いつからはじまったのか、謎ですね…。
【二次創作者、この厄介なディレッタント(まとめ)】
趣味で二次創作をしている人間が書いた、よしなしごとの目次頁です。
二次創作には旨みもあれば、毒もあるのですね…。
はい、今回もいかがわしいお話を一席。
やはりといえば、やはりの熱を帯びそうな話題を。
二次創作者、とくに女性による描き手で、よく「受け」「攻め」という言葉を聞きますね。カップリング表記にルールがあって、A×Bとあったら、Aが攻め、Bが受け、らしいです。
「美少女戦士セーラームーン」シリーズの、セーラー戦士ウラヌスとネプチューンのカップルがセンセーションを起こしたとき、「ウラネプ」とか「はるみち」とか、一見何の略称かわからなくて驚いたことがあります。名前の頭をとって、組み合わせているんですね。
この受け攻めの但し書き、かなり重要らしいです。
今更説明するまでもないのですが、「攻め」はぐいぐい積極的で、「受け」はリードされる方。ABだとAが男性的な立場で、Bは女性的な立場、と言えばわかりやすいですね。別に床の上のお話ではなくて、プラトニックラブめいたエピソードであっても、これをはっきりさせておかないといけないらしい。なぜなら、同じAとBが出ていても、ABとBAとでは、たいそうな違いがあるからとか。
私の二次創作物では、この表記、あんまり気にしていません。
ABと書いているけれど、単にAとBが仲良く登場しますよ、という触れ込みなのであって、どちらが主導権握るとか、護られたい側になるとか、そんなのきっちり固定しなきゃいけないのだろうか、と思うわけです。Aは完璧なようでいて結構抜けているとか、頼りない受け身のBが奮起して頑張り屋のAを助けるとか、そういうギャップ萌えではないですが、意外性を発見するようなお話が好みだったりするので。
自分の手掛けた二次創作をA×Bです、という紹介のしかたにも違和感があります。
アイスクリームのトッピングを選ぶみたいに、A×Bです、という。AとBで演じられた世界で、何を世に訴えたいのかが見えてこないのではないか、という気がする。A×Bと名づけられた絵や物語は、他のC×Dでも成立するものかもしれない。『マリア様がみてる』の原作小説に、二条乃梨子が姉の藤堂志摩子に対して、「世界は二人だけで構成しているわけじゃないのよ」と語る場面があります。スール(姉妹)という「あなた」と「わたし」だけのペアがシステム化されたその物語世界でも、作家は「二人だけ」の閉塞性に警笛を鳴らしているわけです。それでも、A×Bです、と紹介せざるを得ないのは、その二次創作者が排他的なグループへの帰属意識を表明することによって、自己のアイデンティティを確立せざるを得ないからです。
そもそも最初から設計されたように、Aはかくかくしかじかの性格なのでこういう動きしかしない、という取り決めでいいものか。人間には多面性があります。
元気で陽気で活力あふれる人が、いつまでもそのままであるとはいえない。
持ち前の知性や倫理観は時代が変わってしまえば、曇るかもしれない。ひとに惹きつけられ魅力にしばしば幻滅し、こんな人ではなかったのに、と思うとき、身勝手にも私たちはその人本体ではなく、その周囲に沸いた霧のような幻想に蠱惑されていただけなのかもしれません。憧れとか尊敬とかからはじまる、上位者に対する愛情の一種は、しばしば、あっさりとひっくり返された侮蔑に置き換えられやすい。上位者に対する劣等感とないまぜになった憧憬は、自分がその立場を奪うことで満たされてしまうからです。
そもそも、ABの話ですよ、とわざわざ前書きに書かなきゃいけないものなのだろうか。
ABでくっつくかと思われたけど、実はACになっちゃいましたとか。でも二次創作は、このキャラのお話が欲しい、こういう結末になってほしいというのが読者のニーズなので、期待を裏切っちゃいけないのですね。読者があらかじめ具体的に端々まで固まって妄想できてしまうなら、そもそも二次創作自体いらないのでは、と存在論的な結論に至ってしまうのですが。特定のキャラクターが書きたいというよりも、そのキャラたちが置かれた環境を風景画のように書きたいとしか思わない私は、このカップリング表記に無頓着になってしまわざるをえない。
で、このルールを忠実に守れる、というか守らざるを得ないのは、同人屋さん。
とくにメジャータイトルで、ファンは多いけど、カップル数もさまざまで、さらにはその受け攻めでも細かく分類されてしまうので、かなり注意されているようです。カップル表記だけでなく、地雷となるような要素(殺人があるとか、グロいとか)も明記しておかないといけない。クレームは怖い。お金が絡んできたら、誰しもひとは気が荒くなります。A×Bですよというラベリングで、自己の嗜好を守らなくてはいけなくなる。
だいたいアブノーマルラブなので、けっきょくどっちが男役、女役かを決めておく必要があるのかもしれません。その役割に縛られているのは、窮屈な気がするのですが…。自分はA攻めB受けが好きなのでそれを書き続けますよ、という意思表示をしておくのはよいのですが、わざわざ、他人の作品を読んだのちに「A×Bでないから駄目」という存在否定はしなくてもいいのではないでしょうか。大勢の中に隠れて、そっと石を投げるみたいに。
AとBが出てくる話だけど、受け攻めが私の好みと逆だから受け付けないという硬直した意見は、支配/被支配関係を暗黙裡に望んでいるように思います。私はこれこれの役割だから、最大限ここまでしかしませんといった一線を引いてしまっている。どちらもがともに自立した対等な関係であるべきなのに、立場の強弱とか行動の軽重とかをとくに同性のあいだで取り決めておかねばならない心理的背景には何があるのか。「…であらねばならない」「…でありたい」という枠にはまった生き方について葛藤していく姿なのかもしれません。
ちなみに海外の二次創作小説とされるファンフィクションでも、この表記、かなり浸透しているみたいですね。タロウ×ハナコだったら、T×Hみたいに。でも、順番にまでこだわっているのかどうかはわかりかねますが。
それにしても、このルール、いつからはじまったのか、謎ですね…。
【二次創作者、この厄介なディレッタント(まとめ)】
趣味で二次創作をしている人間が書いた、よしなしごとの目次頁です。
二次創作には旨みもあれば、毒もあるのですね…。