「人々は得体の知れない現象を神の御業と思い、怖れてきました。しかし、それを知識で割り切れば、解決できることもあります。文明開闢(かいびゃく)、今はそういう時代です。千歌音さま、貴女様は賢明なお方です。ですが、いまのままでは貴女様は永遠に、哀れなストレイ・シープ(迷える子羊)。このままお邸で、この天火明村で埋もれていては勿体ない」
「私はいったいどうすればいいの…」
千歌音はついに、かつての姉巫女への気安さにその言葉を口にしてしまった。
姫子に問いかけ、そして、「わたしといっしょに生きていこうよ」という朝陽眩しい答えをもらった、あの洞窟の前での奇蹟を引き出した、その言葉を。どうしたらいいのか、身の処し方を自分で考えられない千歌音の弱さがまたしても露呈してしまったのだ。
修道女ワルキュレイシアは、理解ある教師のような顔つきをして、千歌音の肩にそっと手を置いた。
「貴女さまは、いまを時めく姫宮家のご令嬢。薄暗いお邸で埋もれていることなどありません。姫庫(ひめぐら)からもようやく解放されたのです。知見を広め、やがて新しき世界にお役立ちする者となるべきです。そのために、千歌音さまは女学校に通うべきです」
断言するような啓示に、千歌音は息を呑んだ。
それは思うだにしなかった千歌音の進路だったからだ。驚きともに、しゅわっとした喜びがからだの奥から湧き上がったのを、千歌音は感じた。
「乙橘の…女学校に? でも、発病してからは休学扱いになっているわ。いまさら戻れるわけがない…」
「乙橘女学校には、かつて大巫女さまのもとで学んだ見習いたちも多数在学しております。新しく理事になられた千莢(ちさや)さまは帝大のご出身で、向学心あふれるお方。きっと、千歌音さまの御復学にも尽くして下さいましょう。ご希望であれば洋学すら叶いましょう」
千歌音の頭に浮かんだのは、姫子のことだった。
姫宮家は巫女を利用しながら、巫女そのものの存在を表に出すことを嫌っている。姫子を進学させることはしないだろう。私が学校に通えば、姫子と離ればなれになる。傷ついた姫子を置いてけぼりにして、自分だけの幸せと栄達を望むことなどできはしない。千歌音は唇を噛んだまま言葉が継げない。修道女が畳み掛けた。
「千歌音さま、ここは一番、ようくお考えくださいまし。私たちに学をお望みになったのは、他ならぬ姫宮の亡きご当主さまです。そして、貴女さまがご回復のみぎり、いずれ復学させることはご当主さまのご遺志でもございました。ご当主さまは、千歌音さまにいずれあの学園を受け継いでほしいと思っていらっしゃったのですよ」
「私に乙橘女学校を引き継がせる…?」
「ですから、お社の跡地を女学校の寄宿舎とされたのです。ゆめ、お社を奪ったのではございません。政府の巫女弾圧を免れるために、お社を学校につくりかえただけ。貴女様がそこで暮らせば、かつてのお社でのお暮らしが戻ってくるのと同じではございませんか」
修道女のその言葉は、逡巡する千歌音を揺さぶった。
月の大巫女さまは亡きご当主さまと敵対していたのではなかった。後継とされる神無月であった母の千崖(ちはて)の代わりに、自分に残すべきものを進言していたのではないか? そのために、姫宮の娘にされたのではないか?
千歌音とて、今の甲斐無き身の上がいつまでも続いてよいわけではないことは分かりきっていた。所詮、一人で身を立てることができない千歌音である。姫宮の御本家だって、余分な侍り女をいつまでも側に置いておくわけにもいかないだろう。もしも自分が女学校に入学しそれなりの修学に励み、いずれゆるぎない地位を築くことができれば、姫子にも姫宮に除外されないような待遇を与えることができるはずだ。誰にも姫子に危害を加えさせないような、ひとかどの立場になれば。それにもともと読み書きは嫌いではない。来栖川子爵に掛け合えば、姫子を子女扱いにして同じ女学生にしてくれるかもしれない。そうすれば、ずっと姫子と一緒にいることもできる。そもそも姫子には、その資格があるのだ。何をためらう必要があるだろう。私はもう、あの薄暗い庫(くら)に閉じ込められた人間ではない。自分で自分の生き方を選びとってよいのだ。にわかに生きる目標ができたことに、千歌音のこころは燃え立った。
「神はこの国のどこにでも宿るもの。あのお社のある場所に祀られるべき新しい神が現れたのです。大巫女さまと同じ名をもつ貴女様こそ、あの場所のふたたび主となられるべきなのですよ」──追い討ちをかけるがごとく修道女が去り際に残した言葉は、千歌音に言い知れぬ情熱をもたらしていたのだった。勧進せよ! 勧進せよ! 汝らの魂、我らが大いなる神の御元へ捧ぐべし!! という邪教の響きが千歌音を取り巻いていた。どどん!と狂いきった見世物の仕舞いを告げる果て太鼓が甲高く鳴り響いたそのとき、すでに千歌音のこころは決まっていたのだった。