「憧れ」という漢字は、童の心と書く。
それは、肩車をしてもらわなければ見えない大人の視座を手にしたいと欲する坊やの気持ち。地上にはべっている四つ足の獣が空を駈ける翼を望むような気持ち。足がなくて岩盤にべったり張りついている人魚が、ハイヒールでさっそうと地べたを蹴りあげている美女を羨望する気持ち。そして、砂地に打ちあげられてうずくまっている貝が、ひろげた帆布に潮風を孕みつつすいすいと進む帆船を焦がれるような気持ちである。
つまりは進化のきざはしにある生命が、そうなりたいと願う完成形態へいだく敬けんな恋煩いといえるかもしれない。
この感情はときに崇高と似ているように思われる。遠いもの、大きな存在を夢見るというベクトルにおいて、それは憧れと似ているが、同一ではない。美しい直角二等辺三角形の定規と、正三角形を半分にした定規とが、いっかな重ならないように、おなじではない。前者はいくら真半分に折り畳んでも永遠に縮小した自分をつづけていくが、後者はひとつ角と角をあわせれば四角形に進化する。崇高は、十九世紀のイギリスの風景画家が描いたような雄大な自然や、バロック期の宗教画の神々を恍惚としてみまもるが、それに変わろうとしない。紙のうえに線を描いて描きまくるが、自分の輪郭を一辺増やすことはできないのだ。二等辺直角は現状に満足しているのだ。もとが美しい正方形の半分を分けあたえられた、その姿に。
三〇度の鋭角をもつ直角三角形は、みっつの角度のふぞろいのために、直立すれば二等辺よりもなお高く、空に近づこうとしている。この三角の意思こそが、いうなれば、憧れである。
さて、憧れのヒロインはというテーマなので、とうぜんそれは自分にはないものを備えた優れた人物が対象となる。そこで推挙したいのが、高町なのはさん。彼女は人気アニメ「魔法少女リリカルなのは」シリーズの主役だ。
このアニメは、水樹奈々嬢の代表作としても有名である。高町なのはのライバルでありのちに盟友となるフェイト役の声優として、また歌手として主題歌を歌う。(アニメ第三期のOP、ED、挿入歌についてはこちらを参照)いまや日本の国民的アニメとなった美少女バトルアニメの元祖「美少女戦士セーラームーン」の係累であり、深夜放送であったけれどもさほど残虐シーンはなかったので、おススメできる。
二期までは九歳の魔法少女であった高町なのはは、アニメ三期の「魔法少女リリカルなのはStrikerS」においては、十九歳の凛とした戦技教導官として成長している。二期までの人気キャラの活躍の機会が減って評判を落とした感のあるこの第三期、じつはシリーズ中いちばん好きなのである。
この高町なのはの人柄をよくあらわすエピソードが本編中、三度ある。
ひとつは第八話あたり。殉死した兄の夢を継ぐため無理な訓練をかさねた教え子ティアナに、容赦のない一撃をあたえる。この仕打ちは観ているこちらも悪寒を覚えたほど恐ろしく思えるのだが、力を行使する立場にある人間が誤った力のつかい方をすることを身をもって知らせたムチの教えである。
その次が、第二〇話。(レヴューはこちら)敵方との最終決戦に出動する四人の新人たちを前に、自信の言葉を贈る場面。「どんなに辛くてもやめなかった努力の時間は、絶対に自分を裏切らない」──過酷な訓練に耐え抜いてきた教え子を勇気づける笑顔と激励。彼らはこの教師の気持ちに応え、最終回あたりではなのはたち指導者の窮地をすくうほどの活躍をみせる。この本編から三年後を描いたドラマCDでは、なのはに鉄槌をうけたティアナが、四人のなかでもいちばんの出世頭としてめざましい働きぶりをみせている。
ティアナを厳しく律したのは、なのはが幼少時からからだに負荷をかけすぎた戦いをして重傷を負った自身を省みての、愛情からだった。若手からはエースとして慕われているヒロインであるが、生まれつきのスーパーガールというわけではなく、平凡な家庭に育ち友人想いで、しかし甘いだけのやさしさのみならず、ときには自身の手を汚すことも辞さない強さをあわせもった人間として描かれていることに、好感をもった。ある意味、古いタイプのヒロインといえなくはない。
さて最後のエピソードは第二十五話。(レヴューはこちら)孤児でひきとって親代わりとして育てていたヴィヴィオが、敵方に囚われ洗脳されてしまう。出自のために自分の存在を否定しようとする少女の闇を救うために、ほんとうの母親として暮らすことを決意する。出産経験もない独身女性が養女をむかえるという展開は、美少女アニメのヒロインとしては破格のように思えびっくりしたのだが。じつはそこに、日本のワーキングウーマンが憧れる究極の未来像、つまり母親という聖職であり難職へのテーゼがすりこまれていると感ずる。(詳しい論考は、二十三話レヴューを参照)
このアニメ第三期は、従来の同世代の少女の交情にくわえ、組織における正義と権力の腐敗、師弟の教育や家族のあり方について表明しており、アニメでファンタジー色が強いにもかかわらず、きわめて現代の社会問題をあつかった作品である(…と個人的には思う)
ちなみに私が直角二等辺三角形の感情、すなわち憧れよりは近よりがたい女神のようなヒロインとして慕うのが、拙ブログでさんざん紹介しているこちらのお嬢様であるが、人を選ぶ作品なのであまり一般向けには推薦できない(笑)
というよりも、その物語ではつねに同質の角度をもった相思相愛のふたりを、どちらかも等距離で見つめる距離にいたいという想いで、その想いだけで精いっぱいなのである。永遠に重ねられていくのはそのふたりの角度だけなのであり、重ねられていくのにまたふたりが生じてしまうという永劫のさだめは、彼女たちの輪廻を如実にいいあてているように思われる。
DVD『デイ・オブ・ザ・デッド』
理由は、なのはが世間で言う、「世の中、綺麗事じゃ生きていけない。」と逆の事に成功したからです。(すべて綺麗事じゃなかったと思うけど……)争いは犠牲が付き物、人間同士解り合う事なんてできない、この世界に自分を救ってくれる人なんていない、自己責任など誰が作った言葉か知らないけど、それを否定し成功したのはインデックスの上条当麻とこの高町なのはぐらいだと思います。
上の四つは世間じゃ当たり前だというぐらい通ってますし、アニメでもシリアス路線だと結局救えるのに救えない、救おうともしない守りきれない(今の世界中の政府みたい)、私自身今でもコレが正解なんだろうなと思います。
だから私はこれほど芯が強く、奇跡を起こし、綺麗事すら出来ないうそつきと違い、魔道士高町なのはに惹かれると思います。
ただ私は機動六課とスカリエッティ一味の戦いときに「どちらにつくか」と聞かれればスカリエッティ一味の方に付くかもしれません。
理由は単に人としてこいつらに勝てるから。
人体実験したり、人を傷つけたり、弱いものいじめしている奴より私の方がマシ…、と目くそ鼻くそのような比べ方をしている最低な私と同じ意見の人がたくさんいると思うからです。最後に変な事書いてすいません。
熱いコメントありがとうございます。最近このブログ、新規のお客さまが多いですね。
>「世の中、綺麗事じゃ生きていけない。」と逆の事に成功したからです。(すべて綺麗事じゃなかったと思うけど……)
そうですね。鬱アニメが乱立し、人をゲームのように殺傷する、そのしくみや武具などがおもしろおかしく描かれていればいい、というアニメが多いなかでは、異彩を放っていたように思われます。もちろんバトルのしくみなど手抜かりなくつくりこんだうえで。
第三期は魔法力が桁外れに強化され、かつ軍事組織としても巨大化するいっぽうで、それを扱う者の脆さをもあわせて描くことで、リアリティをもっているように感じます。
>争いは犠牲が付き物、人間同士解り合う事なんてできない、
これはまるっきり、アメリカが中東侵攻した原理ですよね。
>この世界に自分を救ってくれる人なんていない、
これを覆したのが、まさに第二十五話ですよね。この世に親もなく孤独に誕生してしまったヴィヴィオを救ったなのはの決意。
>自己責任など誰が作った言葉か知らないけど、それを否定し成功したのはインデックスの上条当麻とこの高町なのはぐらいだと思います。
最近のアニメをよく知らないので、その当麻くん(という名をきくと、「サムライトルーパー」という古いアニメを思い出す(笑))は知らないのですが。
自己責任という言葉、たしかに叱咤激励する意味でつかわれればよいけれど、今や有利な立場にいる者が弱者に責任をなすりつけりために都合よくつかわれている気もしますね。
たとえば赤信号の横断歩道を渡って事故に遭ったら、それはたしかに自分が悪い。
でも、片親や低所得の世帯に生まれて、学習意欲はあるのに進学をあきらめざるをえない子ども。若者は、生まれた時からすでに将来的な税負担がおおきく年金もうけとれない。雇用の安定もないのに、無能で出社しても昼間っからネットしている中高年管理職に、薄給でこき使われ成果は奪われ、あげくの果てに努力が足りないだのなんだのと難くせつけられる。それは、自己責任といえない部分もありますよね。
ただ、私にはすくなからず救ってくれる人がいたので、「この世界に自分を救ってくれる人なんていない」とまでは思いつめてはいないですけれど。
正しいことをしたり、まじめなことをしたりしているのに、批難されたりからわれたりする風潮はなんとかしてほしいですね。もちろん理想だけではうさんくさいけれど、殺伐としたドラマが多いような。
ところで、最後の論理がいまいち飲み込めなくて。
生命を科学で弄んでいる博士にくらべたら人間味として勝るというのならば、機動六課側に与するということになると思ったのですが…?
ちなみにスカ一味はあんがい憎めないキャラで、意外と人気あるようですね。「StrikerS X」ではナンバーズの何人かは味方になってくれているようですし。
男ひとりハーレム状態の悪の組織の女性陣って仲違いしていることが多いのですが、彼女たち姉妹として微笑ましくて、不謹慎にも和みますよね。こういう一面的な正義だけを貫く者だけを持ち上げないところがおもしろかったり。
基本的にこのシリーズ、一期から無抵抗な立場の犬死がないのが救いで、悪者という悪者も最終的にはいないのですよね。罪を裁くのは魔導師ではなくて、裁判ですし。だから負けた側でも敗北感や惨めさが漂わない。スポーツマンシップに近いものがありますね。
フェイトさんのほうが人気が高かったり、魔王呼ばわりされているなのはさんですが、やはり正当派のヒロインらしくて、大好きですね。
拙所では、まだ第三期の最終回および「StrikerS X」のレヴューを残しておりますので、またよろしければご拝読くださいませ。
>最後の論理
これはただ私が変人だと思ってください。(いや、変態かな?)
例えば私が機動六課に居たとして、なのはさんやそこで働いてる人達を見たり、一緒に行動したりして自分に落ち目を感じる事があるだろうなと考えたからです。つまりなのはさん達がまぶしすぎるのです。ティアナの気持ちが解りますよ、こんな人達に自分がなれるのかなって。
コードギアス見ても、ガンダムSEEDや00、とある魔術のインデックスを見てもそんな気持ちまったく感じなかった私ですから。
最後にレヴューは拝見させてもらいます。
ふたたびコメントありがとうございます。
アニメとか架空のキャラに対しては上から目線で見ているふしがありますので、そこまで思いつめたことはないですね。
現実にそういうタイプが周囲にいないからこそ、憧れるのであって。
ただ、この作品であつかっている事柄を自分の身近におきかえて考えてみることは、すくなからずあります。
仮に自分がなのは達とおなじ世界にいるとしたら、そして落ちこぼれだとしても、なのは達は訓練では厳しいですがそのあとではフォローしてくれそうな気がしますね。
あと、すみません。コードギアスとか他のアニメはきっちり視聴したことはないので、わからないです。