陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

大学の研究室選びで研究の質が変わる

2022-01-17 | 教育・資格・学問・子ども

「研究者になれなかったひとの活路」という記事がたまに読まれているようです。
目を通しているのは、若い学生さんなのでしょうか。それとも、私のように学業の夢をきれいな想い出にしたがっている者なのでしょうか。

これは新進気鋭の女性研究者の痛ましい死を扱ったものですが、私自身は、国立大学M卒と半端な学歴で、いわゆるポスドク経験はないため、下から目線の、いささか辛辣な分析をしたのかもしれません。でも、自分が海外の研究機関で博士号取得したり、著作をものしたり、実績をあげていたりすれば、そこから軌道修正するのは難しく、やはりその道にしがみついていたのかもしれません。道半ばだから、あっけなく命終えたから、その人の人生に価値がないのかと言いましたらそうではありません。

研究者になろうとする方は、小さなころからそれを目指していたのか。
それとも、大学に入ってたまたまいい先生の手ほどきを受け、薦められるままにその道に引きずり込まれたのか。

私が思うに、ただ文章を書くのが好き、論理的な考察をするのが生きがい──というだけでは研究者になるのは難しいのではないか、ということです。とくに民間のシンクタンクやら、大学などの研究機関に所属し、禄を食む場合、研究の公益性が求められるでしょう。近年は実学的な傾向が強く、資本主義下における人材育成機関として大学の機能強化が図られたがためになおさら。

私が学生時代に所属していた時分は、国立大学の法人化がされたころで、まだ大学は古くさい学問の影を漂わせていたと記憶しています。旧帝国大学系の人文科学ではラテン語やギリシア語の履修もあったらしいけれど、私の母校は二流なのでそんなにレベルが高くはありませんでした。今では最先端技術によるイリュージョンなどは注目を浴びていますけども、あの当時は、そんなものを研究材料に選ぶと失笑されていた時代でした。漫画やアニメも同じです。

さて、今回の記事の主題は、大学の研究室選びです。
全ての大学がそうなのだかわかりかねますが。おおよそ大学の学位取得要件として、卒業論文もしくは作品提出を義務付ける大学は、たいがい各教官の研究室所属になります。○○先生のゼミに入ります、なんて言いますよね。ゼミはゼミナールのこと。

芸術学を専攻した私の場合、おおきく美術か音楽かにわかれ。
さらに美術でも、洋の東西か、近現代か、古代中世か、美術史かもしくは美学哲学か、などで教官の専門や過去のその教え子たちの研究傾向と照合して選びました。

ふつうは入学した時点で、演劇が好き、映画が好き、誰それの絵が好き、哲学者がいい、などと学生側にヒアリングして、学生たちも教官たちの講義に出ながら検討していくものです。ゼミに分かれるのは、4回生の卒業研究がスタートしてからですが、だいたい3回生の秋までには候補が決まっていました。

ところで、私自身は、なんと入学時点で指導教官に仰ぐ先生を決めていました。
その大学は当初の志望校ではなかったので、そもそもどんな研究者がいるのすら知らず。けれども、二次試験で試験監督に現れたその教官があまりにインパクトがありすぎて。なんか、あの先生面白そう! 側にいたらワクワクする! という自分の直観がきらめいたのです。事実、院修了までずっとお世話になりました。

研究室は教官個人の牙城。彼らはみな専攻が違うけれども、微妙にライバルで、所属するゼミ生も犬猿の仲になったりもします。学生を引き抜いて、喧嘩に向かわせる策士の教官もいたりするのです。

正直に言いますと、私の指導教官Aは研究実績としてはあまり高くないけれども、学科長で正教授だっため、学内の政治調整にすぐれていた人物でした。
しかも、愛妻家で子煩悩なせいか授業が終わるとすぐ帰るし、居残りの学生の面倒をみてやるタイプでもない。他の教官のBやCのほうが表面上は親切でしたし、語学力も高く、若々しいし、賢そうにみえる。彼らも優秀な手駒が欲しいので、私に声掛けしてきましたが、なんとなく相性の悪さを感じ取ったので断っていました。しかも、A先生は予算の実験を握っていたので、この研究室ではかなり高価な資料も買えたのです。私はこの事実を、先輩方を観察することで見抜いていたのです。

私の指導教官のA先生は東京藝大出身のせいかかなりアバウトで、就職の世話もしないし、学生からはわりと不評でした。あまり学生を褒める方でもなかった。
ところが、いざ、卒論発表が近づくと、東大出の教官BやCは指導が厳しく、アカハラまがいのことをする、とわがA先生の研究室に落ち延びてくる学生が続出したのです。なぜかといえば、A先生は研究室もそこの資料も自由に使わせてくれて、学生の自主性を重んじてくれたからです。学生の研究テーマを教官のものに近づけさせることもなかった。しかも、この先生、学者っぽくなくて、けれども昔は社会活動に関心があったせいか、専門外のことも話されるのですこぶる好奇心を刺激される。一般的な狭く深くの専門家ではないのでした。ですので、美術やら美学やらの枠組みにとらわれない、ジャンル横断的な学際的研究が可能だったのです。私を含め同じ研究室の仲間は、卒論発表会で高評価でしたし、私はこの先生のもとで論文を研究誌に掲載させていただく機会を得ました。

実際、そのあと、他の教官から研究論文の掲載をめぐって嫌がらせをされたときに、「僕の名前をつかって印刷所に直接持ち込めばいいよ」と後押ししてくれたのもA先生でした。
いつもちゃらんぽらんでいい加減だと思っていたけれども、肝心な時にはバックアップしてくれる。それこそ、組織の長だし、教育者としてあるべき姿なのではないか。

もちろん、このA先生ともギクシャクしなかったことはありません。
学生も論文一本仕上げて実績ができれば、自尊心も芽生える。先生と対立するようにもなります。けれど、俗にいう、アカハラみたいな事態にはなりませんでした。この先生とは、つい最近まで年賀状のやり取りをしていましたが、毎年、よくわからない文面を送ってくるひとでした。

私は在学中に、もともとも第一志望だった旧帝大の文学部に、仮面学生として講義やゼミに参加させてもらったことがあります。
フランス語の原文を読み下ししたりしてかなり高度な学習がなされていましたが、やはり教官がお偉い方なのか権威的で気後れがしました。ここに進学していたら、自分は絶対潰されていたと確信しました。いわゆる院進学で学歴ロンダリングをしなかったのも、研究室が居心地がよかったためです。けれども、他の教官からは、ぬるま湯に浸かりすぎるとよくないぞと苦言を呈されましたが。

他の教官BとCの教え子たちは、その後、院進学でA先生のゼミに鞍替えしたり、他の大学に学歴ロンダしたれども外様扱いだったり。痛ましいのは、ある男子学生が自死を選んだということでした。学会では名を馳せた著名な学者先生であっても、学生に対して倫理的に高潔である、物腰柔らかである、とは限らないのです。近年はやっとアカハラがクローズアップされるようになりましたけど、2000年前後あたりのあの当時はまだ声をあげる人は少なかったでしょう。

このような思い出話をしたのは、コロナ禍でリモート講義や、ゼミでの親密な指導が行われず、大学の師弟関係の崩壊が懸念されるからなのです。
そもそも、大学、とくに院になると将来不安でメンタルを病むケースが多いのです。なにせ社会から隔離されて文献と睨めっこしているし、自分と似たような人間としか付き合わないので視野狭窄に陥りやすいから。

大学に限らず、それは中高でも、部活の指導でもそうなのかもしれませんが、指導者しだいで若い皆さんの将来が変わってしまうかもしれないことは、心にとどめておいて下さい。

先生に限らないですが、これから先の人生、出会うひと、関わる人により、自分の運不運が左右されるのだとした、誰でも慎重に相手を選びますよね。業績があるからとか、富裕だからとか、わかりやすい指標ではなく、そのひとの言動が自分にとってどんな影響を及ぼすのか、自分はその人を前にしてどんな振舞いをするのか、突き詰めて考える必要があります。会社に勤め出したら上司や同僚はこちらから選べないけども、学生時代だからこそ人付き合いの自由は許されるのです。

大学の先生とも反りが合わず、しかも気の合う学友もいないので、孤立してしまい学業を断念する、そんなケースもよく耳にします。せっかく苦心して進学したのに、もったいない。いま、大学が学生さんを経営のための搾取対象としか見ていなくて、教え育てることを疎かにしているんじゃないかという気がしないでもないのです。

師事する指導教官や研究室の環境、人間関係によって、論文執筆の進捗や学生時代のメンタル安定度が変わってきます。教えを乞う先生は慎重に選びましょう。今回はそんなお話でした。

それにしても、今、私が象牙の塔の側の人間ならば、こんな泥くさいことはいわないでしょうね。
ある種の経営者もそうですが、大学の先生というのは、科学少年がそのまま年取ったような、かなりの困った人種が多いもので、愛憎半ばする思いがいまだにくすぶってしまうのです。

(2021.08.28)









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