
毎週日曜日はよほどのことがない限り出かけない日と決めて、現住まいの片づけに専念することにしている。
進撃の巨人のアニメを深夜に見て、寝不足のまま迎えたこの日曜日も、昼に仮眠をとっても眠れない。うっかり寝たら、起きられなくなるのではないかという不安があるのだ。
布団を干したり、洗濯ものを取り入れたり、流しを洗ったり、少し手の込んだ汁物をつくったりする。平日のアフターにはあまりできないことを消化する。
心がしんどいときは、必ず部屋にものが溜まっていた。床もデスクも紙が散らかっていて、経理処理ができないままの領収書がそのままになっていたりした。
この頃はかならず月末締めを行ったら、翌月はじめの週末には先月分をやり終えるようにしている。以前は一日がかりだ作業もコツを掴めば、土曜の午前中で終わるようにさえなった。
ものが整理できない、片付けられない時は、自分のメンタル不全のサインだと思っている。
以前ある人が、自分の運命が変わる時は、身近なものが壊れたり、なくなったりする。そんな予兆があると教えてくれたのだが。最近、職場でも自宅でもパソコンの不調に見舞われたり、あわやデータが…と焦ってしまうこともしばしばだった。
ストレスが溜まったときは、とにかくむしゃくしゃして、お腹にものを詰め込もうとする。
しかし消化不良気味の私は太ることがなく、すぐにお腹を下してしまうのだ。食べきれない、読み切れない、なのに集めてしまう。それを使いこむ時間がまだるのではないか、と期待して。
実際、疲れたときはものを摂取するのではなくて。
むしろからだを軽くしていった方がいいのだと、この頃気づいたのだった。あちこちから集めた冊子や新聞雑誌の類、郵便物、さらにはおやつの菓子袋で、ゴミ箱がパンパンに膨れていることがある。
情報にしてもそうだ。あれもこれもと欲張って、役立つかもと思い、ブックマークにしたり、コピーを保管したりする。ところが見直す機会がないまま、どこにいったかわからない、なんてこともしばしば。しかし、万が一のことを考え、次への引き継ぎをするためには、細かく記録を残しておく必要がある。
わたしたちは生きているうちに多くのものを生み出す、増やしていく。
そうして、なにかをつくって時間を費やしていることが、何か有意義なことをしていると考えてしまう。だが、ほんとうにそうなのだろうか? 集めたものは魅力が失せたら、空間を圧迫し、掃除するにも面倒になる。使い道がないまま置き場所をふさいでしまうこともある。
流しや風呂場には一週間もすれば汚れがこびりついている。
苦労して掃除した割にはすぐ元どおりになる。カビや細菌が生命活動を行っているからだ。空き地にもうかうかすれば、小枝のように固くなかったセイタカアワダチソウが2メートル級の高さで群生しだしている。刈ったり、枯らしたりのいたちごっこなのだ。人間だって、土には還らない人工物を溢れさせて、生物循環を乱しているのかもしれない。
なるべく日々、スマートに生きるには、最小限のものさえあればいいと思いつつ。
物価高の昨今は、少し安ければ、買い置きしたくもなってついついスペースを食ってしまう。
記録魔の私が無駄に増やし続けているのは、他ならぬ、お小言めいたブログ記事だとか、メモなのかもしれない。
かつて亡くなった親族の家の断捨離で大量に遺物を廃棄したことがあるから、不要なものはなるべく残さないようにしているものの、ついつい保管癖が抜けないのだ。この、我が家を博物館のようにする癖はなるべくなくしたほうがよいのかもしれない。
無心になってモノを片付けたり、掃除したりしていると、迷いが晴れやすくなり、からだを動かすので早く眠れるようにもなった。
ひとり反省会で脳にいらぬ考えを詰め込み過ぎるものもよくないのだ。
(2023/11/05)