昔はいわなくてもわかると思っていた。
じゃ、どういう風に意思疎通するのか?
そう、忖度するのである。
忖度というのは、相手任せであるから、無責任である。
ちょっと違う、全く間違っている、いろいろである。
争いたくない、波風立てたくないときは、相手任せにする方がいい。
一番の利点は、相手がしたことという責任逃れを主張できることである。
ただ、忖度任せにして、あまりにも間違った方向にいきそう、いくときは、プッシュバックするために、ちょっと言ってみるなどするのである。
しかし、今は、言わなきゃわからない、と信じている。
勿論、言い方はある。
最小限、言ってみる。わかれば由。しかし、わからなければ、もう少し言ってみる。わかれば由。わからなければ、もっと言ってみる。という具合である。
と、わかってくることがある。
言わなきゃわからない、どころか、言ってもわからないということがわかる。
いや、言えば言うほどわからないということがわかる。
となると、言ってもわかないなら言わないでおこう、となる。そして、堂々巡りとなる。
結局、どうするか?
まず、伝え方に工夫をする。わかりやすく伝えることである。
わかり易く伝えても、伝えられない。現実の社会ではこちらがほとんど。
いろんな方法で伝えることを考える。例えば、他の人を交えるなどある。
それでも、わからないときは、これはものの考え方、各人の生き方の問題なのでどうすることもできない。
こうなると、その人とどのような付き合い方をするかの選択になる。できるだけ、避けること。
といっても、避けられない相手もいる。
そういう場合は、物事の重要性に応じて、どのような手段をとるかであるが、結果でわからせるしかないことになる。結果を受け入れざるを得ない状態にするというだけである。理解し、納得して受け入れたわけではないとしても。
結局のところ、言ってもわからない者には、何をしてもわからない、と悟るわけである。
後は、どこまで、したいかという、こちらサイドの覚悟のほどだけである。
つまりは、自分の生き方が問われていることになる。
生きるということはそういうことなのだ。