幅130㎜、高さ65㎜、奥行き105㎜。長い時を経て焼けたような黒ずみがある
瓦礫のようにしか見えないが、これはれっきとした骨董品である。
一昨年亡くなった梶井純さんが所有していたもので、それが本郷の住人の手に渡り、次いでワタシのもとへやってきた。
受け取ったときに詳しい説明を聞きそびれてしまい、これがいったい何であるのか長い間不明だった。
奈良時代あたりの瓦の残欠かとも思っていたのだが、それにしては施されている浮き彫りの絵に伸びやかさがない。
正面は堅苦しい抽象模様である。上部は黒く煤けているが、網目模様がある。
では時代が下がって鎌倉あたりかと想像を楽しんでいた。 正体のわからぬままに、本棚のブックエンドとして使っていたのだが、
先日梶井さんの骨董についての著作を久しぶりに読み返していたら、この瓦礫の写真と紹介が載っていた。 この瓦礫は、漢の時代の玄室に使用されていた磚(せん:古代の煉瓦)であるらしい。
漢の成立は紀元前206年である。それから400年続くわけだから、およそ2000年前のものということになる。 中華人民共和国成立以降、中国の歴史的文化財は海外への持ち出しを厳しく制限されている。
この磚はおそらく、戦前もしくは戦中に、日本人が大陸から略奪に近いかたちで持ち出したものの一部なのだろう。 そのあたりのことについて梶井さんは著作で、同時に取り上げた楽浪磚について、次のように述べている(楽浪郡=紀元前108年〜313年。朝鮮半島北部)。
「(楽浪の磚が)いったいどのような経緯をへてわたしの手元へ来たのかを考える。いずれ戦前か戦中の招来にはまちがいないだろう。願わくは、あまり不当な経路をへていないことが望ましいなどと、身勝手に甘い考えにふけったりもする。帝国主義といい、植民地主義といい、いずれにしてもこの国が犯した罪障を考えることなくこの磚を持っていては罰があたるというものである」
1918年に発見された中国の天龍山石窟の石仏は、日本の古物商によって頭や手足が削り取られ、
国外に持ち出され、国内の博物館のみならず、欧米にも散逸している。
これらの石仏を元の石窟にもどすことも、修復することももはや不可能である。
歴史とはそうしたものであるという苦い認識はあるにせよ、それでもやりきれない思いにとらわれる。
ようやく、この瓦礫が約2000年前の漢の時代の磚であることが判明したわけだが、
とりたててその扱いが変わったわけではない。
本棚で、今も静かにブックエンドの役割を果たしている。
下の3点の写真はいずれも石仏流出前の全貌を伝える唯一の写真集「天龍山石窟」(1922年刊)から
天龍山石窟 東峰諸窟全景
第16窟東壁
第18窟東壁