散歩と俳句。ときどき料理と映画。

戦艦長門

いつもの神田川遊歩道散歩のひとつ外れた道で見つけた、戦艦長門戦友会通信科の表札。まだ存続しているのだろうか。

戦艦長門。史上初めて41センチ砲を搭載する戦艦として建造され、竣工時世界最大・最速を誇った。また、連合艦隊旗艦を最も長期にわたり勤めた。1917年8月28日に八八艦隊計画の第一号艦として広島県の呉海軍工廠にて起工、1919年11月9日に進水する。1920年11月25日、竣工した。

子どもの頃にプラモデルを作った記憶がある。屈曲した第一煙突が印象的。

戦後、戦艦として唯一航行可能状態で残ったが連合軍により武装解除される。1946年7月ビキニ環礁での核爆弾実験の標的とされ、二度の核爆発に耐えたのち、浸水が進み沈没。

核爆発のキノコ雲の根元の長門。

高柳重信の多行形式による、日本海軍の艦艇名を読み込んだ句集『日本海軍』(1979年)に長門も登場する。

 腹割いて
 男
 花咲く
 長門の墓

「腹割いて」と「花咲く」、「男」と「長門」の言葉遊びが面白い句である。
しかしこの句集『日本海軍』で試みられたのは、たんに形式の面白さだけではない(いや、じつはこれが滅法おもしろいのだが)。なによりもこの国の地名の持つ根深い闇(=古代天皇制から明治・大正・昭和へと至る神話を含め)に初めて触れた画期的な句集である。
長門国は古くは穴門(あなと)と呼ばれていた。穴門とは海峡(関門海峡)を指しており、日本神話にも「穴戸神」の名が見える。古墳時代に成立した穴門国造の領域と阿武国造の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置された。7世紀後半に長門国に改称した(wikipediaによる)。
朝鮮半島と向かい合う位置にあり、外交上からも防衛上からも北九州に準じる重要な土地でもあった。
重信の句に出る「長門の墓」はもちろん戦艦長門が沈むビキニ環礁ではない。長門にある墓と解するのが正解だろう。とすると、源平合戦の舞台となった壇ノ浦の戦いのことが思い起こされる。

『日本海軍』からいくつか。

  如何如何と
  伊吹は
  雪の
  問ひ殺し

  名は
  榛名
  祟部として
  鳴く蜩

  死後も立つ
  人の木や
  陸奥の
  麥の秋

  因に
  言へば
  鳥海は
  血染めの父か

  まして
  大和は
  眞晝も闇と
  野史と言ふ

原文の漢字にはすべてルビがふられているが、ここでは省略した。

下の写真は海底に眠る戦艦長門の姿。

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