大事なことを忘れるところだった。
昨日5月25日は柳瀬正夢の命日。享年45。
「仮面」 油彩画1936年 愛媛県美術館所蔵
柳瀬正夢が手がけた『無産者新聞』の表紙絵。
以下ウィキペディアによる。
愛媛県松山市で生まれる。3歳で母と死別し、家計を助けながら画家を志した。11歳のとき、福岡県門司市(現・北九州市)に移る。1915年、15歳で油彩「河と降る光と」が院展に入選し、早熟の天才画家として有名になった。その後上京し絵画を学び、1920年には読売新聞に入り、時事漫画を描いていた。
折しも米騒動やロシア革命に刺激を受け、大正デモクラシーが高まりを見せた頃で、文芸界でも民衆芸術論が盛んに議論された。柳瀬もそのような芸術運動に傾倒してゆき、普門暁の未来派美術協会に入ったり、村山知義、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎とともにMAVOを結成したりして、前衛美術に進んだ。1924年には、三科造形美術協会を結成している。
一方でプロレタリア美術にも傾倒し、1921年に種蒔く人、未来派美術協会に参加。1923年に日本漫画会発起人となる。そして1925年、日本プロレタリア文芸連盟の結成に参加、同年創刊の無産者新聞に参加し、多くの挿絵を執筆した。
1931年10月、日本共産党入党。しかし翌1932年に治安維持法違反で検挙され、拷問を受ける。こうした逆境にもめげずに、プロレタリア美術への運動を続け、無産階級の画家として知られたゲオルグ・グロッスを日本に紹介した。他にもカリカチュア、絵画に始まり、デザイン(ポスター)、コラージュ、舞台美術、絵本など、戦前~戦中にかけて幅広く活躍した。
1945年5月25日、山の手空襲により新宿駅西口で戦災死。享年45。諏訪に疎開していた娘を見舞うため、22時発の中央本線の夜行列車に乗ろうとした所、空襲の被害に遭ったと言われている。遺族によって柳瀬の遺体が発見されたのは、死後4日経った5月29日だった。
柳瀬正夢と妻・朝子 1939年北京
第一回写生派コペル展1940年前列中央が柳瀬正夢
彼の闘いの一生は、井出孫六による評伝『ねじ釘の如く―画家・柳瀬正夢の軌跡』(岩波書店/1996年)に詳しい。
柳瀬正夢が描いた漫画。
『柳瀬正夢全集』(全4巻+別巻1)5冊揃い定価87,000円+税。
ワタシのようなルンペンプロレタリアートが買える本ではない。