今日は先日NHKの大河ドラマでの平家は源氏の
武将たちの大活躍であっと言う間に滅亡して
しまいましたが、塩尻でその平家のアツモリ草
源氏のクマガイ草の花の展示会がありまして
その花を撮ってきました。その平敦盛について
敦盛は嘉応元年(1169)、平清盛の弟・経盛の末子(3男)に生まれました。幼い頃から笛が上手く、祖父・平忠盛が鳥羽法皇より賜ったという「小枝(さえだ)」(一説に「青葉」とも)の笛を譲り受けていました。
一ノ谷の合戦時、敦盛は16歳。従五位下ながら官職には就いていなかったことから、「無官大夫(むかんのたゆう)」と称されていたといわれます。 敦盛は平家一門として一ノ谷の合戦に参加していました。小枝の笛を錦の袋に入れて腰に差し、「練貫(ねりぬき)に鶴繍(ぬ)うたる直垂(ひたたれ)に、萌黄匂(もえぎにおい)の鎧着て、鍬形(くわがた)打ったる兜の緒をしめ、金(こがね)作りの太刀を佩(は)き、二十四指(さ)いたる切斑(きりゅう)の矢負い、滋藤(しげどう)の弓持って連銭葦毛(れんせんあしげ)なる馬に金覆輪(きんぷくりん)の鞍置いて…」(『平家物語』)といういでたちです。
やがて、義経の奇襲が成功して平家方が総崩れとなると、敦盛は郎党らとはぐれてしまい、やむなくただ一騎、沖の船を目指して馬を泳がせます。ところがそこへ、「大将軍と見参らせ候え。敵に背中を見せるとは卑怯なり」と声をかけた者がいました。源氏方の武蔵武士・熊谷次郎直実です。
敦盛にすれば、挑発的な言葉を無視して、沖の船に向かうこともできました。しかし彼は、武士の誇りを捨てて生き延びるよりは、己の武士の名を惜しむことを選びます。 海から取って返し、熊谷直実に勝負を挑んだ敦盛は、波打ち際で直実に組み付かれ、落馬します。取り押さえた直実が首を掻こうとしてよく見ると、相手はまだ16、7の紅顔の美少年。自分の息子ほどの年齢です。さすがの直実も哀れに思い、手にかけることをためらいました。しかし、その背後には、すでに土肥、梶原ら味方の軍勢が迫り、直実を注視しています。もし、直実が見逃した.としても、すぐに別の者が襲い掛かることは明白でした。逡巡する直実に敦盛は、自分が誰であるかは名乗らずに「お前のためには良い敵である。名乗らずとも首を取って人に見せよ。さあ首を取れ」と促し、直実は「ならば我が手にかけ、後の菩提を弔い申そう」と、泣く泣く敦盛の首を掻き切りました。
やがて敦盛が腰に差していた小枝の笛によって、直実は自分が討った少年が敦盛であったことを知ります。これを機に、直実は武士の生業に虚しさを覚え、出家することになります。 この敦盛を題材にした幸若舞『敦盛』の一節を、織田信長が好んだことはよく知られています。
先に熊谷直実(クマガイ ナオザネ)にまつわるクマガイソウ
これが 若くして潔く散った 平 敦盛(タイラノ アツモリ)
にまつわるアツモリソウ・・これは貴重な花で信州
の路地では育たないようです