
今回色々な方から頂いた品々。とても勇気付けられ、また励まされ、癒された。本当に感謝。
lab~六識~について。後記として雑多に、ただ取り留めもなくつらつらと浮かんだことを思いつくままに。
○人生を豊かにし、表現の幅を広げるものとして「縁」が重要な要素であると考える。一回しか会わなかった人とその後ファミリーミュージカルを創ることとなったり、期が離れている子達が偶々現場で一緒となったり、10年経った今でも飲みに行く先輩後輩がいたり。良縁も、そして当然の如く悪縁であると思われるものも己の今後を大きく変える可能性を秘めているのだ。そう考えると本当の悪縁というものはそうないのかもしれない。
共に学び、楽しみ、笑い、考えてきた子達にわたしはどうやったら恩返しが出来るかと考えた時に、それぞれ素晴らしい各期の子達を繋げる場を作り出す、「縁」を生み出すことぐらいしか出来ないだろうと思った。この「縁」、切ろうと思えば簡単に切れる。所詮人との関係性は目に見えない、己の想いによる幻想の糸なのだから。それでもその細い糸を慎重に手繰りよせ、より合わせ、一本の強い紐、縄、綱にし、繋がっていて欲しいと思うのだ。
何がどう繋がるか分からない。だから面白いのだ。
○役者として舞台に立つ人間が大勢いる。その中で下手な役者は基本いないと思う。その個性はその人間にしか出せず、それを挫く権利は誰にもない。下手と思われるのは役者と役と脚本と演出の四間バランスが悪いのだ。スターシステムを取らない演劇製作においては戯曲がまず上に立つ慣例があると思う。役者が戯曲の中に生きる役に合わせにいくのである。そうではなく、個々の能力を最大限に活かした役を配置しその役達で物語を作れれば…というのがアクトオケの前提である。
○アクトオケ、この形態で初めて6年経つ。様々な子が関わってくれた。恐らく今回出演してくれた子の大半も今後旅立っていくであろう。それと同時にこの場を守ってくれる子もまたいるであろう。
わたしとしてはアクトオケはいつでも帰還出来るマザーシップ…いや違うな…もっと適切な言葉があるはず…そう、実家くらいに考えていてくれればと思う。若い子にとっては家として、出て行った子にとっては本当に困った時にふと戻れる場所…でよいと思う。そう考えるわたしも随分歳を取ったものだ。始めた時が20代なのだから当たり前なのだが。
○わたしは専ら音響卓から芝居を観ていたのだが、役者とお客様との関連がとても面白かった。特に弍識の舞台上の役者と共にお客様がコップの水を飲むというシーンでは鳥肌が立った。これ、凄いことなんですよ。「幻想」「演習」をこれまでコンセプトにしてきたが、これからは「インスタレーション」を突き詰めていきたい。
○今回は六作品独立しているが、それぞれに関連性を少しずつではあるが持たせていた。壱識、弐識は「闇」であり、弐識、参識、陸識は「神」、弐識と肆識は「ホムンクルス」、参識と伍識は「芥川」、弐識と伍識は「涙の谷」、両方観ていただけたお客様に気づいていただけたらば幸いである。特に「神」は己の作品モチーフの一つであり、新興宗教「神の御子」とはこれからも付き合っていくのだろう。ちなみにこの「神の御子」、作品が進むごとに規模と活動内容がしょぼくなっていくという突っ込みがあった。確かに「バスジャック・ドンキホーテ制圧・銀行強盗」→「爆破未遂」→「水マルチ商法」としょぼくなっていってる。次はどんなしょぼさになるのか。
○普段あまり演劇を見ないお客様に今公演をご覧頂いたのだが、壱識の評判が良かった。SST(ソリッドシチュエーション・スリラー)が珍しいという点、己が光を操るという見世物小屋感が良かったとのこと。劇場における最大の魅力は「完全暗転状態」であると考える。それを活かしつつ、且つわたしの思考も相成って、どうしても物語が暗く、バッドエンドとなる傾向があるようだ。今回も6本中4.5本がバッド(または不快な)エンドだった。わたしの根暗さが出ているね。
○シェイクスピア『ロミオとジュリエット』を著作権掛からないように物語化し上演。恥ずかしながらこれまでの演劇人生で初めて古典を正面きって取り扱う。参考として観たこれまでの翻訳されてきた文章の言葉使いがとにかく巧みで美しい。恐れ多くも自身も言葉を充てて上演用に再構築してみた。、以前録音した会話を文面上に起こすという作業の時にも感じたのだが、普段脚本書いている時に使うの脳の部分と全く異なる場所を使っている。
ただ漠然と己の言葉で台詞を書いていっても成長には限界がある。会話起こしと翻訳作業は劇作としてより上手くなるための訓練となるだろう。
○打ち上げの写真、わたし若くない?まだまだ若い者には負けない。
以上で長々続いた振り返り終了。次会う時までさようなら。
