原口さんの「昭和初期の関西国電における奇・偶数車について」に対するコメントへのコメントですが、コメント欄では図が入れられないようなので、こちらに記します。
まず手元にある写真資料(主に『関西国電50年』です)にどのように写っているかを記します。
まず形式写真です。なお矢印は自連時代は床下にある主回路ジャンパケーブル収納ボックス、密連時代は同ジャンパケーブル垂下位置です。上の四角の箱に対角線が書かれている記号はパンタグラフ位置です。
『関西国電50年』における掲載ページは、上2枚がp. 2、3枚目がp. 3です。またp. 4にモハ40019の密連改造後の写真がありますが、これはS14のモハ40001と全く同じです。
向きは、大阪方なのか天王寺方なのかは分かりません。因みに密連交換時期はS9年5月とあります。
そしてこちらは、密連時代の走行写真ですが (p. 8)、「鶴橋より玉造方面」というキャプションより、方向が確定できます。ただし、あくまでも、写真が裏焼きでない、キャプションが間違っていない、ということを前提とすれば、の話ですが... なお上の形式写真の方は番号が写っていますので、裏焼きでないことは確実です。
全車が奇数だったとされるモハ41が大阪に向いているのが分かります。ただ床下が見えないのでどちらが電気側で空気側なのかは不確かです。
そしてモハ40系城東線入線当初に関する『関西国電50年』(p. 5)の記述です。
「モハ41形とクハ55形は片運転室で、モハ41形は全車奇数向、クハ55形は全車偶数向として製造されたものであるが、城東・片町線では、モハ41形は偶数(大阪向)、クハ55形は奇数(天王寺向)で入線し、使用された。同様に両運転室電車も床下配線の関係から、方向が揃えられた」
この記述は p. 8の走行写真と一致します。ただ自連時代も含めて該当する内容なのか定かではありません。
またその数行下に次のような記述もあります。
「なお昭和12年4月より暫定的に本線用3扉車の一部を借用して、車両不足を補っていた。増備が完了した昭和16年3月現在では、本線よりの借り入れ車を含めた淀川電車区の配置両数は77両に達している」
なおモハ40がどちら向きで製造されていたかの記述は見あたりません。
前回記事を書いた時点では、密連改造時点での主回路引き通し線の位置の変更の可能性について、考慮していませんでしたが、ジャンパケーブルの垂下方向で、奇数車、偶数車が決定できないとすると、奇数車、偶数車の区分は正面運転台から見て主回路ジャンパ栓の位置が右か左かで決定されることになります。
そのことから考えると、S9-S18西成線直通運転までの間の密連初期時代について少なくとも言えることは、1)主回路引き通し線は今で言う内回り側、つまり大阪駅基準で南側であった 2) その時点でモハ41が大阪向きだったということは、運転台から見て主回路ジャンパ栓位置は右側なので奇数向きであったことは確実である。3) 一方、密連時代のモハ40001やモハ40019は、パンタ側運転台を正運転台だと考えると、主回路ジャンパ栓位置は左側であるので、偶数車ということになる。
3) に関して言うとモハ40の奇数車の自連時代の写真、およびモハ40偶数車の密連時代の写真がないので、モハ40がそもそも奇数偶数あべこべに作られていたのか、それとも全車偶数向きで作られていたのか (あるいは密連変更時に向きを調整?) は判断できません。前にも記したように、まだ奇数車、偶数車という概念が確立していなかったと考えるのが妥当なように思われます。下り向き、上り向きという概念はあったとは思いますが。
また全車奇数車だとされるモハ41の主回路ジャンパ栓の位置ですが、自連時代の写真を見ると運転台右床下にあり、また先の密連時代のモハ41の走行写真を見ると、S9年の密連化で、車両の向きの転換はあっても、ジャンパ栓位置自体の入れ替えは行われていなかったのではないかと推定されます。あるいはモハ40のみジャンパ栓位置交換を含む方向転換 (あるいは方向転換せずにジャンパ栓左右入れ替えで対応?) があったのかもしれません。
ここから、初期城東線の車両の方向について次のように推定します。
※密連時代、おそらく奇数向きのモハ41とモハ40(少なくとも奇数番号車<偶数向)は電気、空気の方向は反対。モハ41はおそらく内回り側が電気側、一方モハ40は内回り側が空気側
まず手元にある写真資料(主に『関西国電50年』です)にどのように写っているかを記します。
まず形式写真です。なお矢印は自連時代は床下にある主回路ジャンパケーブル収納ボックス、密連時代は同ジャンパケーブル垂下位置です。上の四角の箱に対角線が書かれている記号はパンタグラフ位置です。
『関西国電50年』における掲載ページは、上2枚がp. 2、3枚目がp. 3です。またp. 4にモハ40019の密連改造後の写真がありますが、これはS14のモハ40001と全く同じです。
向きは、大阪方なのか天王寺方なのかは分かりません。因みに密連交換時期はS9年5月とあります。
そしてこちらは、密連時代の走行写真ですが (p. 8)、「鶴橋より玉造方面」というキャプションより、方向が確定できます。ただし、あくまでも、写真が裏焼きでない、キャプションが間違っていない、ということを前提とすれば、の話ですが... なお上の形式写真の方は番号が写っていますので、裏焼きでないことは確実です。
全車が奇数だったとされるモハ41が大阪に向いているのが分かります。ただ床下が見えないのでどちらが電気側で空気側なのかは不確かです。
そしてモハ40系城東線入線当初に関する『関西国電50年』(p. 5)の記述です。
「モハ41形とクハ55形は片運転室で、モハ41形は全車奇数向、クハ55形は全車偶数向として製造されたものであるが、城東・片町線では、モハ41形は偶数(大阪向)、クハ55形は奇数(天王寺向)で入線し、使用された。同様に両運転室電車も床下配線の関係から、方向が揃えられた」
この記述は p. 8の走行写真と一致します。ただ自連時代も含めて該当する内容なのか定かではありません。
またその数行下に次のような記述もあります。
「なお昭和12年4月より暫定的に本線用3扉車の一部を借用して、車両不足を補っていた。増備が完了した昭和16年3月現在では、本線よりの借り入れ車を含めた淀川電車区の配置両数は77両に達している」
なおモハ40がどちら向きで製造されていたかの記述は見あたりません。
前回記事を書いた時点では、密連改造時点での主回路引き通し線の位置の変更の可能性について、考慮していませんでしたが、ジャンパケーブルの垂下方向で、奇数車、偶数車が決定できないとすると、奇数車、偶数車の区分は正面運転台から見て主回路ジャンパ栓の位置が右か左かで決定されることになります。
そのことから考えると、S9-S18西成線直通運転までの間の密連初期時代について少なくとも言えることは、1)主回路引き通し線は今で言う内回り側、つまり大阪駅基準で南側であった 2) その時点でモハ41が大阪向きだったということは、運転台から見て主回路ジャンパ栓位置は右側なので奇数向きであったことは確実である。3) 一方、密連時代のモハ40001やモハ40019は、パンタ側運転台を正運転台だと考えると、主回路ジャンパ栓位置は左側であるので、偶数車ということになる。
3) に関して言うとモハ40の奇数車の自連時代の写真、およびモハ40偶数車の密連時代の写真がないので、モハ40がそもそも奇数偶数あべこべに作られていたのか、それとも全車偶数向きで作られていたのか (あるいは密連変更時に向きを調整?) は判断できません。前にも記したように、まだ奇数車、偶数車という概念が確立していなかったと考えるのが妥当なように思われます。下り向き、上り向きという概念はあったとは思いますが。
また全車奇数車だとされるモハ41の主回路ジャンパ栓の位置ですが、自連時代の写真を見ると運転台右床下にあり、また先の密連時代のモハ41の走行写真を見ると、S9年の密連化で、車両の向きの転換はあっても、ジャンパ栓位置自体の入れ替えは行われていなかったのではないかと推定されます。あるいはモハ40のみジャンパ栓位置交換を含む方向転換 (あるいは方向転換せずにジャンパ栓左右入れ替えで対応?) があったのかもしれません。
ここから、初期城東線の車両の方向について次のように推定します。
※密連時代、おそらく奇数向きのモハ41とモハ40(少なくとも奇数番号車<偶数向)は電気、空気の方向は反対。モハ41はおそらく内回り側が電気側、一方モハ40は内回り側が空気側