高尾山麓日誌

東京、高尾山麓付近に暮らす日常から、高尾山の状況や、高尾山・八王子周辺地域で気付いたこと、周辺鉄道情報などを掲載

昭和初期の関西国電における奇・偶数車について

2016-04-13 22:22:16 | 旧型国電
 原口さんのコメントを受け、手元の資料から旧型国電の奇偶数車の資料 (写真) を見直していたところ、『関西国電50年』の昭和初期写真から面白いことに気付きました。といっても本格的なマニアの方は既にご承知のことでしょうが...

 それは淀川電車区配置車両(昭和7-8年落成車)と宮原 (明石) 区配置車両で奇・偶数車の概念が違う点です。淀川区の車両の場合、奇数車はジャンパ栓が助士席下側に装備されているのに対し (のちの「偶数車」と同じ仕様)、宮原区車両奇数車では、通常の「奇数車」と同様運転席下側に装備されています。そしてジャンパケーブルは奇数車につけられているのは共通なので、ケーブルの出ている位置が、城東・片町線車両と東海道・山陽線車両では反対になっています。なお『関西国電50年』ではモハ41の第1次車はすべて奇数向き、クハ55はすべて偶数向きとあります。モハ40は写真を見る限り、番号に応じて向きが違ったようですが奇数番号車が天王寺向き、偶数番号車が大阪向きだったようです。
 一方、淀川区車両は向きにかかわらず公式側 (運転台[両運車ならパンタ側運転台]が向かって左に来る側面) が電機側、非公式側が空気側というのは統一されていたようです。

 なお、同じ淀川区所属車でも昭和14年落成車の写真も出ていますが、モハ41055に関してはジャンパ栓の位置は通常の「奇数車」通り、但しジャンパケーブル受けはありますが、ケーブルは垂らしていません(『関西国電50年』では大ヨトに配置された昭和14年製の41053-055はすべて偶数向きとあります)。一方クハ55063に関しては奇数番号ですがジャンパ栓は助士席側下と通常の「偶数車」仕様で、そしてケーブルを垂らしています。つまり昭和7-8年落成車と同じ仕様になっています。

 このあたりの事情が、偶数車正面でもジャンパケーブル受けが取り付けられていた理由のように思われます。

 また昭和7-8年自動連結器で落成した写真を見ると、ジャンパケーブル受けが、床下、ボックス状になって設置されているのに対し、昭和9年密連交換改造後、もしくは昭和9年以降落成車の写真を見ると、通常見られるように、尾灯脇の幕板につけられています。

 なお、『関西国電50年』の記述を読みますと、城東線と東海道線の(大阪駅基準で)上り向き、下り向きの方向が反対だったのが改められたのは、昭和18年10月1日、宮原区所属車で運転されていた西成線と、淀川区所属車で運転されていた城東線の直通運転を行うにあたり、同年8-9月に淀川区所属車の方向転換が図られたとあります。

 おそらくこれは、ジャンパ栓の位置が山側に統一された、ということだと思いますが、偶数・奇数の仕様が東海道線と反対だった昭和7-8年基準の淀川区車両の仕様まで統一されたのかどうかは定かでありません。単純な方向転換と、ジャンパケーブルを垂らす向きを統一しただけであれば、淀川区の奇数車(誤解のないように言えば、S18以前の天王寺向き車両)は今でいう「偶数車」になったはずです。
 クハ58が(今でいう)偶数向き、クロハ59が奇数向きに統一されていたことも勘案すると、少なくとも大鉄では、当時、「上り向き」(城東線の場合は大阪方が上り、東海道線は京都方が上りで、おそらくジャンパ栓位置が運転台右側に来る向きを上りに統一)、「下り向き」(同左側が来る向きを下りに統一)という概念はあっても、偶数車、奇数車という概念はなかったようにも思います。ただ形式によって上り向き、下り向き車両が混在する場合、奇数、偶数で向きをなるべく揃えるという発想はあったように思いますが...

 しかし、西成線、城東線の直通運転のように路線配置が変わったり、転属等で方向転換したりすると「上り向き」「下り向き」という概念では何を意味しているのか不明になります。それで後に「奇数車」「偶数車」という概念に整理され直されたのではないでしょうか?

 なお、ついでに気付いたのは『関西国電50年』に収録されている旧国の写真の圧倒的多数が空気側を写していること。これは東海道・山陽線の場合南側が空気側になりますので、順光の写真を、と考えると必然的に空気側になってしまった結果でしょうね。

 蛇足ですが、昭和初期では大鉄のジャンパ栓は12芯×2栓、東鉄のジャンパ栓は7芯×3栓でしたが、東鉄のジャンパ栓が12芯×2芯に改造されたのは昭和22年前後のようです。ただ偶数車のジャンパケーブル受けは2芯の車でも見られる写真がありますので、偶数車のジャンパケーブル受けの撤去は2芯化とは関係ないようです。