先日、岡山運転区の狭窓流電中間車、サハ58000を紹介しましたが、こちらは電動車クモハ51です。私が撮影できたクモハ51の中ではもっとも若番であるクモハ51003です。ただ岡オカにはクモハ51のトップナンバーも当時いたんですが、撮影当時はそんなことはつゆ知らず... 知っていたらもっと粘ったのに...
なお、山陽線岡山付近が電化されたのはWikipediaの記述を見ますと、1960.10.1上郡-倉敷間電化、さらに1961.9.6に倉敷-三原間電化となっています。『鉄道ピクトリアル』のバックナンバーを追っていきますと、岡山ローカルに旧国が投入されたのはまずこの60年の倉敷電化の時からで、60年の9月末にはクモハ51やクハ68の第一陣が大阪から岡山に移動しています。意外なのはこの時、73系等4扉車両も岡山に投入されています。当時の京阪神緩行線の車両イメージそのまま岡山に展開していたようです。後に淀川電車区の主となるクモハ32001もこのとき高槻から岡山に移動しています。
そして、電化第2陣の三原電化の際、61年の8月末~9月初めに掛けてクモハ51やクハ68の第二陣が大阪圏から移動していますが本車やクモハ51001、それに後に府中に移るクモハ32000等4扉車もこの時岡山に移動しました。
また63年には首都圏からクモハ41や17m車も岡山に移動しています。ただ、クモハ41は岡山では不評だったらしく、数ヶ月で淀川に転出しています。またこの時一部4扉車も大阪圏に戻されています。
また、2扉のサハは64年に移動しており、この時追加のクモハ51も大阪や横須賀線から移動してきています。また3扉のサハは66年に首都圏から (一部は一旦大阪圏を経由して) 転入してきており、この時残りの4扉車は大阪圏に転出。クハ68は主に71,2年に飯田線や福塩線に転出しています。
この写真を撮影したのは75年3月でしたが、この当時は編成はMcTTMcに統一され、Mcはクモハ51に統一されており、主として宇野、赤穂線 (播州赤穂以西)、山陽線三石-岡山間ローカルに運用されていました。
この戦前型旧国の運用が終了したのは、『旧型国電ガイド』(ジェー・アール・アール刊行)によりますと76年6月30日です。小山区から115系の転入を受けて廃止になりました。なおこの時捻出された一部クモハ51は福塩線に転用され、福塩線のクモハ41を置換えています。ただこの時岡オカから岡フチに車両がいつ移動したかは、『鉄道ピクトリアル』『鉄道ファン』とも情報が欠落しており、正確な日取りが分かりませんが、'76.6~7頃であることは間違いないと思われます。
では、本車の車歴です。
1936.3.10日本車輌製造 (モハ51003 東ミツ)→(?)東モセ→1943.12.16改造(モハ41058 大井工)→1950.9.17大ミハ→1951.6.16座席復旧→1951.8.20更新修繕I(吹田工)→1952.4.28 (or 5.21)改造 (モハ51003 吹田工)→1956.3.1大タツ→1958.10.22更新修繕II(吹田工)→1961.9.11岡オカ→1976.10.14廃車
本車は中央線ハイキング列車用に製造されたクモハ51のトップグループです。番号は奇数であるにもかかわらず向きが偶数向きになっています。中央線用クモハ51は浅川 (高尾) 向き(偶数向き)で統一されていたはずなので、そのまま使われているものと思われます1)。
新製配置で三鷹電車区に配属されたはずですが、戦時中に下十条に移動し (移動時期不明) そこからモハ42グループと交換で宮原に移動しています。また戦時中は座席撤去で一時クモハ41に改番されていましたが、戦後復旧され元番号に戻っています。そして上で触れたように岡山電化第二陣で高槻から岡山に移動し、岡山ローカル旧国運用廃止で廃車となりました。全検は岡山時代も含め吹田工場で受けていましたので、基本は関西型の改造を受けていました。
データ出所:『関西国電50年』
1) Wikipedia『国鉄51系電車』には浅川向き(奇数向き)との記述があってそれに引きずられましたが、その記述は誤りのようですので訂正しました(2016/4/6)。
なお、山陽線岡山付近が電化されたのはWikipediaの記述を見ますと、1960.10.1上郡-倉敷間電化、さらに1961.9.6に倉敷-三原間電化となっています。『鉄道ピクトリアル』のバックナンバーを追っていきますと、岡山ローカルに旧国が投入されたのはまずこの60年の倉敷電化の時からで、60年の9月末にはクモハ51やクハ68の第一陣が大阪から岡山に移動しています。意外なのはこの時、73系等4扉車両も岡山に投入されています。当時の京阪神緩行線の車両イメージそのまま岡山に展開していたようです。後に淀川電車区の主となるクモハ32001もこのとき高槻から岡山に移動しています。
そして、電化第2陣の三原電化の際、61年の8月末~9月初めに掛けてクモハ51やクハ68の第二陣が大阪圏から移動していますが本車やクモハ51001、それに後に府中に移るクモハ32000等4扉車もこの時岡山に移動しました。
また63年には首都圏からクモハ41や17m車も岡山に移動しています。ただ、クモハ41は岡山では不評だったらしく、数ヶ月で淀川に転出しています。またこの時一部4扉車も大阪圏に戻されています。
また、2扉のサハは64年に移動しており、この時追加のクモハ51も大阪や横須賀線から移動してきています。また3扉のサハは66年に首都圏から (一部は一旦大阪圏を経由して) 転入してきており、この時残りの4扉車は大阪圏に転出。クハ68は主に71,2年に飯田線や福塩線に転出しています。
この写真を撮影したのは75年3月でしたが、この当時は編成はMcTTMcに統一され、Mcはクモハ51に統一されており、主として宇野、赤穂線 (播州赤穂以西)、山陽線三石-岡山間ローカルに運用されていました。
この戦前型旧国の運用が終了したのは、『旧型国電ガイド』(ジェー・アール・アール刊行)によりますと76年6月30日です。小山区から115系の転入を受けて廃止になりました。なおこの時捻出された一部クモハ51は福塩線に転用され、福塩線のクモハ41を置換えています。ただこの時岡オカから岡フチに車両がいつ移動したかは、『鉄道ピクトリアル』『鉄道ファン』とも情報が欠落しており、正確な日取りが分かりませんが、'76.6~7頃であることは間違いないと思われます。
では、本車の車歴です。
1936.3.10日本車輌製造 (モハ51003 東ミツ)→(?)東モセ→1943.12.16改造(モハ41058 大井工)→1950.9.17大ミハ→1951.6.16座席復旧→1951.8.20更新修繕I(吹田工)→1952.4.28 (or 5.21)改造 (モハ51003 吹田工)→1956.3.1大タツ→1958.10.22更新修繕II(吹田工)→1961.9.11岡オカ→1976.10.14廃車
本車は中央線ハイキング列車用に製造されたクモハ51のトップグループです。番号は奇数であるにもかかわらず向きが偶数向きになっています。中央線用クモハ51は浅川 (高尾) 向き(偶数向き)で統一されていたはずなので、そのまま使われているものと思われます1)。
新製配置で三鷹電車区に配属されたはずですが、戦時中に下十条に移動し (移動時期不明) そこからモハ42グループと交換で宮原に移動しています。また戦時中は座席撤去で一時クモハ41に改番されていましたが、戦後復旧され元番号に戻っています。そして上で触れたように岡山電化第二陣で高槻から岡山に移動し、岡山ローカル旧国運用廃止で廃車となりました。全検は岡山時代も含め吹田工場で受けていましたので、基本は関西型の改造を受けていました。
データ出所:『関西国電50年』
1) Wikipedia『国鉄51系電車』には浅川向き(奇数向き)との記述があってそれに引きずられましたが、その記述は誤りのようですので訂正しました(2016/4/6)。