高尾山麓日誌

東京、高尾山麓付近に暮らす日常から、高尾山の状況や、高尾山・八王子周辺地域で気付いたこと、周辺鉄道情報などを掲載

昭和初期、城東線電車の向き

2016-04-17 09:13:06 | 旧型国電
 原口さんの「昭和初期の関西国電における奇・偶数車について」に対するコメントへのコメントですが、コメント欄では図が入れられないようなので、こちらに記します。

 まず手元にある写真資料(主に『関西国電50年』です)にどのように写っているかを記します。
まず形式写真です。なお矢印は自連時代は床下にある主回路ジャンパケーブル収納ボックス、密連時代は同ジャンパケーブル垂下位置です。上の四角の箱に対角線が書かれている記号はパンタグラフ位置です。


 『関西国電50年』における掲載ページは、上2枚がp. 2、3枚目がp. 3です。またp. 4にモハ40019の密連改造後の写真がありますが、これはS14のモハ40001と全く同じです。

 向きは、大阪方なのか天王寺方なのかは分かりません。因みに密連交換時期はS9年5月とあります。

 そしてこちらは、密連時代の走行写真ですが (p. 8)、「鶴橋より玉造方面」というキャプションより、方向が確定できます。ただし、あくまでも、写真が裏焼きでない、キャプションが間違っていない、ということを前提とすれば、の話ですが... なお上の形式写真の方は番号が写っていますので、裏焼きでないことは確実です。


 全車が奇数だったとされるモハ41が大阪に向いているのが分かります。ただ床下が見えないのでどちらが電気側で空気側なのかは不確かです。

そしてモハ40系城東線入線当初に関する『関西国電50年』(p. 5)の記述です。

「モハ41形とクハ55形は片運転室で、モハ41形は全車奇数向、クハ55形は全車偶数向として製造されたものであるが、城東・片町線では、モハ41形は偶数(大阪向)、クハ55形は奇数(天王寺向)で入線し、使用された。同様に両運転室電車も床下配線の関係から、方向が揃えられた」
 この記述は p. 8の走行写真と一致します。ただ自連時代も含めて該当する内容なのか定かではありません。

 またその数行下に次のような記述もあります。

「なお昭和12年4月より暫定的に本線用3扉車の一部を借用して、車両不足を補っていた。増備が完了した昭和16年3月現在では、本線よりの借り入れ車を含めた淀川電車区の配置両数は77両に達している」

 なおモハ40がどちら向きで製造されていたかの記述は見あたりません。

 前回記事を書いた時点では、密連改造時点での主回路引き通し線の位置の変更の可能性について、考慮していませんでしたが、ジャンパケーブルの垂下方向で、奇数車、偶数車が決定できないとすると、奇数車、偶数車の区分は正面運転台から見て主回路ジャンパ栓の位置が右か左かで決定されることになります。

 そのことから考えると、S9-S18西成線直通運転までの間の密連初期時代について少なくとも言えることは、1)主回路引き通し線は今で言う内回り側、つまり大阪駅基準で南側であった 2) その時点でモハ41が大阪向きだったということは、運転台から見て主回路ジャンパ栓位置は右側なので奇数向きであったことは確実である。3) 一方、密連時代のモハ40001やモハ40019は、パンタ側運転台を正運転台だと考えると、主回路ジャンパ栓位置は左側であるので、偶数車ということになる。

 3) に関して言うとモハ40の奇数車の自連時代の写真、およびモハ40偶数車の密連時代の写真がないので、モハ40がそもそも奇数偶数あべこべに作られていたのか、それとも全車偶数向きで作られていたのか (あるいは密連変更時に向きを調整?) は判断できません。前にも記したように、まだ奇数車、偶数車という概念が確立していなかったと考えるのが妥当なように思われます。下り向き、上り向きという概念はあったとは思いますが。

 また全車奇数車だとされるモハ41の主回路ジャンパ栓の位置ですが、自連時代の写真を見ると運転台右床下にあり、また先の密連時代のモハ41の走行写真を見ると、S9年の密連化で、車両の向きの転換はあっても、ジャンパ栓位置自体の入れ替えは行われていなかったのではないかと推定されます。あるいはモハ40のみジャンパ栓位置交換を含む方向転換 (あるいは方向転換せずにジャンパ栓左右入れ替えで対応?) があったのかもしれません。

 ここから、初期城東線の車両の方向について次のように推定します。





※密連時代、おそらく奇数向きのモハ41とモハ40(少なくとも奇数番号車<偶数向)は電気、空気の方向は反対。モハ41はおそらく内回り側が電気側、一方モハ40は内回り側が空気側


 






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3 コメント

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電化当時の城東線 (原口 悟)
2016-04-24 00:43:37
私の方も、「我が心の飯田線掲示板」の方に2010年の「第1次方転」の議論で紹介された図から、大阪付近の路線レイアウトとジャンパ栓関係の図を作って掲載したので気が向いたら見てみてください。

城東線、片町線電車の運転開始当初の写真ですが、交友社「電車のアルバム」以外では、「旧型国電50年(1)」の40系関連のページで、P77に昭和8年4月の淀川電車区で撮影のモハ41003の写真があります。また、1989年のRP誌の大阪環状線特集(RP89-12号)に、電化開業に当って雑誌「鉄道」主催で当時新設されたばかりの淀川電車区で昭和7年11月27日に省電見学会が行われたとのことで当時の思い出話とともに写真が掲載されています(P31)。1枚はモハ40型で、床下機器配置は奇数配置(公式側が電気側)で、ジャンパ配置は後位運転台側が左2、右1で、「我が心の飯田線掲示板」掲載の図から、こちらが奇数側(パンタ側が偶数側)であることが確認できます。ただ、これらの写真は淀川電車区内での撮影で、背景が無いので本線上でどう向いていたかはわかりません。他、RP89-12号では電化当時の大阪環状線(城東線)の写真がP25からP27にかけて掲載されています
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Unknown (管理人)
2016-04-21 22:04:46
原口様>
 コメントありがとうございます。

 当初、私が自連時代は奇数天王寺向き、偶数大阪向き、そして密連時代のS9-S18年までは奇数大阪向き、偶数天王寺向きと推測したのは、モハ40の偶奇数番号に従ってパンタ側運転台の向きが異なっていたのではないかという前提に立っての推測でした。

 しかし、原口さんのコメントを読むと、モハ40は当初から全車パンタ側運転台が偶数向きだった可能性が高いと思いました。仮にモハ40が全車偶数向きで作られていたとすると、自連時代に奇数天王寺向きだったと推定する必然性がなくなります。そもそも自連時代の走行写真が手元にないので、実際にこの当時どちら向きだったかを確証する写真が手元にありません。

 すると『関西国電50年』の大阪側が奇数側だったという記述はS9-18年だけではなく、S7-18年を通してあてはまる記述であった可能性があります。となると、S9年に淀川区車両の方向転換(いわゆる第1次方向転換)もなく(ケーブルを垂らす方向の変化はあったかもしれませんが)、最初から東京とは逆向きであったのではないでしょうか。

 そうだとすると、配線上はともかく、城東線的には上りは大阪、下りは天王寺だったので、上り=奇数、下り=偶数という固定観念に従って、電車化当初から、結果的に東京地区や後の本線、宮原・明石区車両とは逆向きに入線していたのでは、という気がします。

 このあたり如何でしょう?

 また、自連時代の城東線の方向を示す写真資料の存在等についても示唆頂ければ幸いです。
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淀川電車区の車輌方向続報と後のクモハ61形への影響 (原口 悟)
2016-04-17 13:51:17
淀川電車区車両の方向についての追加情報をありがとうございます。

先の書き込みでも話題としていた「ジャンパケーブルのぶら下がり方」ですが、2010年当時も話題になりました。白い陽さんがわかりやすい解説をしていたので紹介したいと思います。


> まず昭和初期における関東形と関西形のジャンパ連結器の経緯について。
・関東形→高圧ジャンパ×1、低圧ジャンパ(7芯)×3
・関西形→高圧ジャンパ×1、低圧ジャンパ(12芯?)×2
を装備していました。

 関東形のいわゆる30・31系の古い写真をみると、正面から見て連結器を挟んで片側に高圧と低圧のジャンパ栓、反対側に低圧ジャンパ栓が二つ並んでいます。
 同様に「関西国電50年」に掲載されている昭和8年撮影の41003の写真を見てみると、ジャンパ線のぶら下がっているのが低圧ジャンパであり、連結器を挟んで両側に1本づつ配置されています。
 関東の7芯形のジャンパ栓と違い、12芯形は高圧と大きさの違いも少なく、並んでいると取り扱いを誤る危険もあったのでしょうか、翌年のいわゆる42系では低圧ジャンパ栓は2本並べ、高圧ジャンパは1個のみで連結器の左右に別々に取り付けされる事になったようです。
 関東でも7芯ジャンパを片側に寄せる工事を行った後、戦後、結局は関西形と同様の12芯×2のジャンパ栓に交換し、関東・関西の統一が図られました。

 という訳で、40系誕生当初、ジャンパ栓が2つ並んでいる側が高圧側(即ち海側)、ジャンパ栓が一つの側が低圧側(山側)と思われます。
 すると、自連時代の41形は奇数向き、40形は偶数向きという結果になります。いかがでしょうか?。


・淀川区は方向転換改造車ではなくて、単なる方向転換車

 その後、密連改造時かどうかは分かりませんが、低圧ジャンパ栓を片側に集め、後の標準形になる改造を行っています。(後の情報で、ジャンパ栓改造の方が先行したようです)
 通常、方向転換車というと、元の向きの車両と混結するためにジャンパ栓の位置を入れ替える等の改造が必要になる訳ですが、淀川区は要するに全車の向きを変えたのでなんらの改造もないまま、低圧側が海側、高圧側が山側と他区と逆のジャンパ栓配置で使用していたものと思われます。
 そのためなのか、通常奇数側に束ねておくケースが多いジャンパ線が偶数側(淀川区における奇数側)に取り付けてある写真が多く見られます。ま、ジャンパ線自体が取り外し可能な両栓構造なので、根拠とか証拠になる物件ではありませんが・・・。


ここからはさらに後から寄せられた情報なのですが、上記の「7心x3」の低圧ジャンパ栓は高圧ジャンパ(φ150mm)よりもずっと細いのですが、「12心x2」はφ130mmと高圧ジャンパ栓と直径が近く、しかも当初は左右に振り分けられていたために奇数車は向かって左に太いものが2本、右に太いものが1本のように見えたのが、その後低圧ジャンパが右に揃えられたため、向かって左に太いものが1本、右に太いものが2本、という風に見かけが変わります。実はこの「見かけ」が当時方向が話題となった発端でした。

関西のモハ40型なのですが、大井工場で電装をした上で関西へ回送されたらしいことが交友社「電車のアルバム」の写真から推測されました。その後、「国鉄電車発達史」の吹田工場の記述から、城東、片町線電化当初は吹田工場では検査だけを担当しており、新車の電装(戦前は電装か国鉄工場で実施)は昭和9年から、との記述が見つかったので、城東、片町線用電車は大井工場で電装されて関西へ回送されたことが確実になりました。このため、「関東流」で電装されたことになり、モハ40型が「奇数型の機器配置」で「偶数向」になったことが確認されました。

話は変わって、モハ40型からクモハ61形になり、更新修繕を受けた時に工場によって方転への考え方に対する違いのために個体差が生じました。阪和線に残った61001, 002は吹田工場での更新で、上記の落成時の特徴を残したまま更新、61003は大井工場更新で、車体・床下ともども丸ごとひっくり返して、奇数側パンタになり、床下は原則そのまま(車体とともにひっくり返った)だったが、空気側のみ配置替えがあり、空気溜がパンタ直近となりました。61004, 005は豊川分工場更新なのですが、61004は大井工場の流儀で更新されました。ここで、代っているのが61005で、「車体はそのままで、機器を全て点対象に入れ替えて」更新されています。このため、「中央扉が前へ開く」という他のクモハ40,61形とは異なる特徴が生まれました。一方で、パンタや床下を無視して考えた場合、61003と61005の車体そのものの向きは同じで、新製時から変わらない、ということになります。
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