さて、再び飯田線に戻って、こちらはクハ47011 (静ママ) です。本車は、1950年8月24日、身延線内船 - 寄畑間の島尻トンネル内で全焼したモハ30173を、1952年に豊川分工場で復旧した車両です。この事故は富士身延鉄道を引き継いだ身延線のトンネル高さが低く、パンタグラフのアークを引いて火災が発生した事故です。電動車は、元々パンタ折り畳み高さが低いPS-11装備車両が配置されていたものの、それでは足りないと、低屋根工事が施行されるようになるきっかけとなった事故でした。
とはいえ、台枠、車体は新製らしいので、名義上は事故復旧車と言えほとんど新製に近い車両と言えます。車体は溶接の切妻であり、言うならば、戦後生まれクハ79の2扉車バージョンと言うべきでしょうか。
では車歴を見てみましょう。
1929 日本車輌製造 (モハ30173) → 1929.1.25 使用開始 (東鉄) → (名フシ) → 1952.3.31改造 (クハ47023 静ママ) → 1959.12.22改番 (クハ47011 [2代]) → 1978.10.19 静トヨ → 1978.11.24廃車
データ出典: 『鉄道ピクトリアル』バックナンバー、『旧型国電車両台帳』
日本車輌で製造された後、東鉄に配属されます。元々富士身延鉄道の電動車 (モハ1200) は1944-47年に掛けて飯田線、伊那松島機関区に移動しているので、おそらくそれと入れ替えで首都圏から富士電車区に配置換えになったものと思われます。しかし事故後、ほぼ新製に近い形で復旧され、伊那松島区に配属されます。配属後しばらくは伊那松島区唯一の20m車であったはずです。
個人的には、リベットもなくのっぺりとしており、切妻と、形態的にはあまり魅力を感じない車両でしたが、考えてみると、1952年に伊那松島区に配属されてから、かなり長らくそこに留まり、言わば伊那松島機関区の主的な存在だった訳です。26年の長きにわたり伊那松島に生息していましたが、1978年、80系の投入の際、廃車対象に選ばれて、消えていきました。当初は存続予定だったらしいのですが、何らかの事情で急転、廃車対象に入ってしまったようです。
とはいえ、台枠、車体は新製らしいので、名義上は事故復旧車と言えほとんど新製に近い車両と言えます。車体は溶接の切妻であり、言うならば、戦後生まれクハ79の2扉車バージョンと言うべきでしょうか。
では車歴を見てみましょう。
1929 日本車輌製造 (モハ30173) → 1929.1.25 使用開始 (東鉄) → (名フシ) → 1952.3.31改造 (クハ47023 静ママ) → 1959.12.22改番 (クハ47011 [2代]) → 1978.10.19 静トヨ → 1978.11.24廃車
データ出典: 『鉄道ピクトリアル』バックナンバー、『旧型国電車両台帳』
日本車輌で製造された後、東鉄に配属されます。元々富士身延鉄道の電動車 (モハ1200) は1944-47年に掛けて飯田線、伊那松島機関区に移動しているので、おそらくそれと入れ替えで首都圏から富士電車区に配置換えになったものと思われます。しかし事故後、ほぼ新製に近い形で復旧され、伊那松島区に配属されます。配属後しばらくは伊那松島区唯一の20m車であったはずです。
個人的には、リベットもなくのっぺりとしており、切妻と、形態的にはあまり魅力を感じない車両でしたが、考えてみると、1952年に伊那松島区に配属されてから、かなり長らくそこに留まり、言わば伊那松島機関区の主的な存在だった訳です。26年の長きにわたり伊那松島に生息していましたが、1978年、80系の投入の際、廃車対象に選ばれて、消えていきました。当初は存続予定だったらしいのですが、何らかの事情で急転、廃車対象に入ってしまったようです。
台車がTR23なのですが、RP83-5号の記述では、昭和37年にクハ16011と交換して装備したものとのことで、それ以前の台車は豊川社型の木造車に由来するTR11だったとのことです。