ヤップ島回想記

太平洋戦争末期のミクロネシアでの奮闘記

第9章 川海老とマヌペック

2012-10-19 15:13:53 | 第9章 川海老とマヌペック
この頃、独身社宅の生活にも慣れてきた。毎日がおだやかで、強烈な南国の太陽を浴びながらも、体調はすこぶる良かった。南拓荘の食事はすばらしかった。五十嵐さんと私は時々夕食を社宅まで運んでもらって、食事をすることがあった。当時社宅に掃除したり風呂を沸かしたりするボーイが毎日来ていた。マヌペックと言う名前で14.5才で良く働く真面目な少年だった。マヌペックに夕食時に、川海老が食べたいと頼むと、ものの14.5分で近くの小川から笊一杯の川海老を採ってきた。此の少年の立ち振る舞いにはいつも感心していた。
 川海老はそのまま食べても、油で揚げても素晴らしくうまい。川海老は小指より小さく透き通っていて、生きているのを口に放り込むと咽喉のあたりでうごめいている感じがして、飲み込む時の味は格別だった。
 唐揚げは熱した椰子油の中に投げ込むだけ。ジューと音を立て、見る見る赤くなり旨い唐揚げができあがる。穫り立ての食材で作った料理の味は素晴らしく、私達は酒に料理に酔いしれていた。五十嵐さんは毎晩、晩酌をやっていた。私もお付き合いをしているうちに、酒が少し飲めるようになってきた。私は18才の未成年であったが、会社では身長も一番高く、酒を飲んでも誰にも文句は言われなかった。若い私を一人前に扱ってくれるので、酒を勧められると何でも挑戦とばかり、無理して飲むようになった。しかし、本当は酒はあまり好きではなかった。
 当時ヤップ島にはビールや日本酒は内地から、泡盛は沖縄、焼酎は九州から運ばれて来ていて貴重品だった。他に、パラオ、ヤップ産のウイスキーと焼酎があった。現地産焼酎はタロイモやキヤッサバを原料にした蒸留酒で、特有の匂いがあり、最初は鼻をつまんで飲んだのを覚えている。ウイスキーは45度と60度の2種類があった。60度はさすがに強烈で、一度口にしたが飲めなかった。
南拓の人達が良く飲んでいたのはビールが多かった。次ににウイスキー、焼酎で日本酒は燗をするのが面倒であまり飲まなかった。私はたまにビールかウイスキーを 少々飲んでいたぐらいだ。しかし島民ので長老達から振る舞われた椰子酒は、甘酒に似て大好きだった。椰子の実が適当に熟し乳白色のコプラの中にある水は最高に旨い。島では咽喉が乾くと皆これを飲んでいた。これはどんな酒よりも旨いと思った。。
 ヤップ島には椰子の木は何処にでもあったが、背が高くて私たちには登ることはできない。島民は子供でも簡単に高い木に登り、飲み頃の椰子の実を見分けて採っていた。私も椰子の木に登る練習をしたがおじけついて登る自信が無かった。10mから20mもの高さではそれなりの神経を幼少の時から鍛えて初めて出来るのだと断念、二度と登ることはしなかった。