ヤップ島回想記

太平洋戦争末期のミクロネシアでの奮闘記

羊と過ごした少年時代

2012-10-19 14:58:41 | 羊と過ごした少年時代
小学校4年生の頃京極尋常小学校は奈井江町から約3Km離れた村の小さな小学校が私達の住まいだった。屋内運動場に隣接して教員住宅があり、住宅の廊下のドアを開けるとそこは屋内運動場の中だ。
 屋外運動場は割りと広く周りは落葉松や白樺、そしてまっすぐ延びた背の高いポプラなどが生い茂り風情があった。正面玄関の近くに一本の大きな桜の木があった。此の桜はサクランボがとれるので花が満開の時は見事だが風で校庭に散る、落ち葉の掃除が大変だった。初夏の頃甘い香りと共に大きな毛虫が怖かったが生徒達と一緒になって甘い大きなサクランボを篭に一杯とって食べた頃を思い出す。


家族写真 昭和6年  右端が私です(6才)


 気候の良い時は、此の地方はまことに快適だが、冬になると、それも吹雪の朝8時頃はまだ薄暗い。そんななかを、遠くの村から歩いてやってくる生徒達は大変だ。私達はドアを開ければ屋内運動場なので、一歩も外に出ないで教室に行ける。子供心にもほかの生徒達との間に特別扱いのようで心苦しかった。学校が始まる時間までにストーブの火を入れるのは母がやっていた。私は其の手伝いをしていた。新聞紙を丸めて小さな薪を載せてマッチで火を付ける、そして太い薪を上手に載せてうまく燃えてくるのを見届けて終わる。生徒達が来るころには教室がほどほどに温かくなっているようにして授業が始まる。薪ストーブは直径50cm位のズンドウ型で、上から太い薪を入れて燃やすのでかなり大きかった。扱いも大変だった。それも1年位で石炭ストーブに変わったので少しは扱いが楽になったが煙突掃除は大変だったようだ、煙突は住宅のものより太く長いので手際よく作業しても煤を顔面一杯に被るときもある。父が一人で苦労して掃除をしていたことを思い出す。教室は一つしかなく其のほかにもう一つ少し小さい教室があって確か理科の準備室のようで実験機具がたくさんあったのを覚えている。そんな小さい学校だった。
 そして先生が一人、其の先生が私の父だった。1年生から6年生まで全員が1つの教室で勉強するのだ。教室は十分大きかったので、のびのびと机はゆったりと学年別にあちこちに並んでいた。冬になってかなり場所をとる、ストーブが据え付けられても余裕があったと思うが、それ程全校生徒の数は少なかったのかもしれない。
 屋内運動場は結構広く体操は勿論ドッチボールなどが出来た。此の運動場は生徒だけでなく村の青年団の人達が勉強会とか何かの集まりにも使っていたようだ。特に冬の期間が長いので女の人達が編み物や、裁縫の講習会、イベントなどで教室や運動場を使っていた。其のようなとき女の先生がいて、その人がいつも教室にあったオルガンを弾いていたことをおぼろげながら覚えている。
 新年1月1日や紀元節、そして明治節などの祝祭日には村の人達が集まり、校長である父がモーニング姿で白い手袋をつけてうやうやしく教育勅語を取出し、おごそかに式を行ったことを覚えている。
 教室が一つで先生が一人?黒板一つでどうやって各学年を教えていたのかわからないが、よく自習の時間が多かったが、其のようなときは私は下の学年達の宿題の分からな いことなど説明等見てまわったようなことがかすかに覚えている。

毎日昼になると屋内運動場のドアを開けてわが家に帰り昼食を食べる。食事はいつも楽しかった。父も一緒にたべる。特に父が作った食パンは美味しく、当時一般家庭で、煉瓦造りの本格的な釜で焼いたパンを毎日食べられることは珍しいことだったに違いない。父は料理、食べ物についてうるさく其の対応に母は大変だったようだ。父だけは朝食はトーストパンを食べていた。父のパン造りはかなり前から続いていたようで最初のパン釜はブリキか鉄板製だったらしいがこちらに来てから煉瓦造りになったようだ。

 イースト菌の保存は大変らしく、貴重品扱いで子供たちにはさわるることも出来なかった。小麦粉は何時も最上等を使っていたらしい。何時も捏ねるときは母が始めるのだが手早く、力強くこねることが要求され、その時必ず私などが呼び出され袋に入ったパンの素を足で踏んだり叩き付けたりした。発酵させるのに炬燵を使っているときもあった。此の時の温度の見極めは父の裁量による。なにしろ一度に焼く量はかなり多いので、毎日食べても2~3週間はある位の量だ。パン釜から取り出すときのおいしそうなにおいはたまらなく、子供たちは何時も焼き上がりのその時をわくわくして見ていた。塩味がきいて真っ白で適当に筋があり、フランスパンのようにしなっこく現在のパンと比較しても味は良く上級の出来だ。子供の時の感じだったが、本当にパン屋さんのパンより美味しかった様な思いは今でも忘れられない。特に卵と牛乳にひたしたパンをバターで狐色に焼いたフレンチトーストに肉とジャガ芋そしてセロリー、アスパラ、等など盛り付けた料理は子供心にもハイカラでご馳走に見えた。しかもフレンチトーストにソースをかけて食べるのがわが家のしきたりで私達は大変満足していた。 とにかく父はこのような食べ方を母に率先して教えていたようだ。シロップや蜂蜜が一般的だと 知ったのは大人になってからだ。


 其のころは父と話をすることが何となくぎこちなく、父の優しさは分かるのだが、なぜか甘えることが出来なく唯私にとっては怖い存在だった。父と子の関係はあまりにも年の差があり、厳格なよその叔父さんと話をしているような毎日が、「おはようございます」「おやすみなさい」「はあい」と、挨拶や返事がはっきりしないとうるさく、とにかく、朝から寝るまで父の前では緊張の一日だった。でも休みの日などは父はわざと親しい口ぶりで用事を言い付けたりするのだが、何故か打ち解けなく動作がぎごこちなくなってしまうのだ。
 父の存在は食事や洗濯・掃除をしてくれる従順な母と違って一家の長として君臨する王様なのだ。そして何事も率先判断実行できる有能な指導者なのだ。其のような何事も支配できる父をひそかに私はねたみうらやんでいたのかもしれない。家族の私たちは父を尊敬し愛していた。然しそれに時々反抗している私だった。特に羊の飼育の手伝いなどするときはこわごわついていったものだ。
  私が小学校に入学したのは旭川に近い函館本線深川駅と納内駅に近い内大部尋常小学校でやはり父が校長先生で他二人しかおらない小さな学校だった。この京極小学校よりははるかに大きく、住宅も長屋で他の先生が住んでいた。勿論周りは広々した畑や牧草地でポプラや落葉樹などの高い樹のある典型的な農村風景の中にあるのどかな環境だった。おぼろげながら覚えているが春と秋の遠足は必ず神威古潭に出掛けたことを思い出す。
 その頃の神威古潭は石狩川の上流ですさまじい激流の眺めは壮観で桜の満開時や紅葉の時はたくさんの人達が繰り出した。私たちは水しぶきのかかる川淵からごつごつしている岩で透き通った青いきれいな岩片を一心不乱に探し目的の岩片をハンマーでかき取りそれを後生大事にもって帰ったものだ。当時それはオンジャクといってたが緑泥変麻岩で板や鉄片や土に字が書ける蝋石で当時は子供でも簡単にこうして手に入ることが出来た。かなり大きな岩片がとれた喜びは子供にとって宝物でした。リュックサックにしこたま詰め込んで真っ赤な顔をして帰ってきた思い出は全く夢のようです。

1年生か2年生の頃か確かな記憶は無いが、この頃父は羊の飼育を始めたらしい。羊小屋に釘で頑丈に打ち付けた柵木を、大きく力強い種羊は、何回も頭突きを繰り返しついに打ち破って逃げ出す騒動が起こり、子供心にも心配したものであった。牝の羊はおとなしいが牡の羊は子供の力では手に負えない。
 戦後聞いた話では、当時北海道の農村で綿羊の飼育は、あまり普及していなかった。現在は月寒種羊場は有名だが、当時は滝川に北海道庁の種羊場があった。父はそこから1頭2頭と自費で購入したのが最初だった。村の活性化や、青年達の将来も父は考えていたのかもしれない。


 羊小屋のそばに兎小屋があり7~8羽の兎を飼っていた。ある日、村の青年団の人たちが沢山の兎を運んできた。見ていると彼らは兎の耳と胴体を持って膝に「コクッ」と押し付ける。兎は瞬時に息が絶えた。こうして処理し山積みされた兎を今度は、板に貼り付け「ベロッ」と皮を剥ぎだした。これにはびっくりして恐ろしくなり、私はその場から逃げ出した。自分の飼っていた兎も、むごい仕打ちにあっただろうが、その後のこと覚えていない。こんな光景を見ながらも、天真爛漫にのびのびとしていたのが、私の少年時代だった。 当時は父も私がまだ幼かったので余り手伝いを命じられることは少なかった。父の転勤に伴い、4年生の時、奈井江の京極小学校へ移転した。この頃は体格も4つ違いの兄と同じくらいに成長していた。このころ父は、私を手伝いを命じることが多くなった。
 その頃何と綿羊は20数頭になっているではないか。今考えても不思議な気持ちだが何故父はこれほど羊に固執したのかと。小さな動物でも大変なのに羊は体格もあるので小屋にしてもまた運動場もそれ相当の広さがいる。夏でも冬でも家畜の世話で嫌なのは排泄物の処理だが大人ならともかく子供の私はこれが一番つらかった。然し綿羊の糞は征露丸の黒い粒が大きくなった形でぽろぽろと落とすので、割合扱いやすいので、助かったようだ。夏はともかく冬は運動不足になるので天気の良い日は外へ出してやることにしていた。吹雪など続いた日は小屋から外へ出るときは特に子供の羊は嬉しそうにピヨンピヨンと横飛びしながら新雪のなかへ一斉飛び出す様は何ともほほ笑ましい一時です。毎日顔を合わしていると自然に顔を覚えてしまい、名前をつけて呼ぶようになり、これは家畜を飼った経験のある人は誰でもわかるはずだ。綿羊の子供は小さい時は本等に可愛い。
 暑さに向かう5月か6月かけて、羊毛刈り込みが始まる。子供には無理な作業なので、父が専ら一手に刈り込みをやっていた。時々、村の青年団も研修を兼ねて手伝いにきていた。然し父にはこれが重労働だったに違いない。綿羊1頭の羊毛から約3.7・のホームスパン織で背広一着分出来るそうだ。刈り取られた羊は涼しそうだが貧相で可愛そうだった。やはり羊はふさふさとのびた羊毛にくるまっている姿が自然で安心して眺められる。
 こうして此の記事を書いていると本当にあの頃の少年時代が懐かしく胸が熱くなってきた。父は家族のために、どんな想いで羊を飼育していたのであろう。幼かった私には、わからなかった。今思い出して見て、教育者であり北海道の大地に生きた明治男が時代を先取りする夢にもえていたのではなかったか。目をつむると父が羊小屋の中から敷き藁を柄の長いフオークを使って、汗だくになって運び出している姿が浮かぶ。
 志半ばで倒れたのは、やはり重労働が原因になったのかもしれない。もっと私達は父に対しての理解が足りなかった事が悔やまれる。もう少し、父に対して素直になっていたらと思う。
 父が亡くなる前の年の冬のある日、朝からラジオは緊迫した事件の内容を放送していた。父が「東京では、軍隊が反乱を起して大変なことになっているらしい。それをしずめるため、説得ちゅうだ」と説明してくれた。私にはよく理解できなかった。昭和11年2月26日(1936年)雪の降る中で、陸軍の青年将校が昭和維新と称して反乱を起したいわゆる2.26事件の日のことだった。遠い昔の記憶だが、父とラジオを聴いていたのを鮮明に覚えている。また、その年の夏ベルリンでオリンピックが開催されていて、夜中のラジオ放送を聴いていた。女子平泳ぎ200メートル決勝で日本の前畑とドイツのゲネンゲルの勝負になり、僅差で前畑が優勝するのだが、アナウンサーの「前畑ガンバレ・前畑ガンバレ」.......「前畑、勝った、勝った」と絶叫していたのを覚えている。その時も父が側にいたような気がする。

このような記憶を荻窪の兄に聴いたが、ラジオをそのように父と一緒で聴いた事なんて無いといわれた。兄はその頃は札幌の師範学校の寄宿舎住まいだったので私だけだったかもしれない。