ヤップ島回想記

太平洋戦争末期のミクロネシアでの奮闘記

第10章 コバルトの海とバンブーダンス

2012-10-19 15:14:21 | 第10章 コバルトの海とバンブーダンス
コロニアから1.5km程西北にある、標高147mのマタテ山に監視所が設けられてヤップ島も愈々戦時体制の沿岸防衛に一般在留邦人と島民が協力することになった。勿論私もその一員で、たしか2~3回登った様に記憶している。私の番が来た最初の時は道案内役の島民と二人で早朝未明に出発した。コロニアの街から西北の方へ人通りの少ない道を進みやがて山道に入る。一本道のダラダラ坂をかなり歩く、中腹から頂にかけては木が少なく、見通しがよいが道が狭く足場も悪いところもあり、島民の足は早いので途中小休止もせず、ようやく頂上にたどり着く。7時の交代に間に合う。頂上には高さ6~7mの頑丈な望楼が建っていた。梯子で登るとそこは思っていたより広く、眺望はすばらしく風もあり、涼しく快適な監視所だった。
 前任者と交代、道案内で一緒にきた島民は何かを運搬するのか少し休んで帰っていった。今日一日の私の助手は年配の島民だった。双眼鏡が一個唯一の監視器具だ。すばらしい眺望が珍しく最初のうちは何もせず唯じーっと見ているだけだった。
 望楼からのヤップ島は隅々まで見晴らせて、夜特に満月の出る夜は煌々と輝く満月が眼下の椰子林をくっきり浮き上がらせ、はるかコロニアの灯りを眺め、遠くサンゴ礁の白い海岸線を通してコバルト色の太平洋を見つめていると、何処で戦争をやっているのか、あまりにも静かな光景は、何のため私はここに居るのかと、茫然と佇む。未だ飛行機も艦船らしきものは一度も発見することもなく、全く退屈な役目で、殆ど唯遠くコバルトの海を眺めているだけの不真面目な監視要員だったようだ。
 ヤップ島に上陸して以来現地人の島民とこうして二人だけで過ごす様なことは無かったが、しだいに互いに話し掛けるようになって 彼らも若い日本人にはあまり警戒心も無く、むしろきさくに対応してくれたようだ。私もこの時とばかり、日常会話は勿論ヤップのいろいろな事について、しつこい位聞きまくっていた。若い島民は殆ど南洋庁立公学校を卒業しているので日本語はペラペラで、年配の島民の中にはドイツ語が話せる者も居て、ダンケシェン、グウテンモルゲン、ハオス、バオムなんて簡単なドイツ語を得意になって教えてくれた。私も真剣になって教わったものだ。
 ヤップの月夜は明るく満月は内地で見る月よりはるか大きく見える。そして此の監視所の望楼から満天の星空を仰ぎながら夜は必然的に彼らを唄と踊りへと誘い出すのである。たしかに彼らは自然に私に唄と踊りを披露してくれた。ヤップの踊りは足で地面を強く踏み付けたり、手の平で身体を叩いたり、また竹と竹を打ち鳴らす(バンブーダンス)などが多い。拍子を足で土間を踏み鳴らして踊る、その時の音は人数が多いほど共鳴効果は良いはずだ。特に此の望楼の厚い板の間の響きは彼らにとっても快く感じられたのか調子にのってくるとリズミカルに強く踏み鳴らし、唄も一段とさわやかになってくる。私もこの時こそ真剣に、身振り手真似で彼らの唄と踊りを覚えたのか何故か55~56年たった今でもおぼろげながら憶えている。
 月の全く出ない夜は日没と同時に真の闇になりカンテラが無いと望楼の下まで降りることも出来ないほど、物騒でカンテラの灯りだけではボソボソと話もはずまず、一晩中黙々と過ごしたこともあった。月夜の監視の役は私にとって退屈どころか汗だくで楽しい一夜を過ごし、唄などの特訓に励んだ場所としてなつかしく思いだすことができる。