ヤップ島回想記

太平洋戦争末期のミクロネシアでの奮闘記

ヤップ島回想記 パート1

2013-02-05 02:56:52 | ヤップ島回想記 パート1
「ヤップ島回想記 part1」は北海道の片田舎に育った少年(私)がやがて大きくなり中等学校卒業して最初の就職先南海の孤島ヤップ島の3年間の前半を綴ったものです。そこでの経験がその後の人生にどのように影響あるものなのか、私にとっては大事な思い出となり、是非何らかの形で子供たちに残したいと書き始めました。
 退職後パソコンのワープロソフトで始めて、最初は快適に進んだが、だんだん記憶があいまいになってくると記述も思い道理に進まなく、17章の前編という形でとりあえずまとめてみました。

第1章 大東亜戦争勃発
第2章 俺は決めたのだ
第3章 俺は行くのだ
第4章 豪快に砕ける波
第5章 パラオ島コロール
第6章 椰子林に覆われたヤップ島
第7章 無人島に一人
第8章 島民総動員で屋根葺作業
第9章 川海老とマヌペック

第10章 コバルトの海とバンブーダンス
第11章 テニスコートの完成と新人の赴任
第12章 ポンポン船で鉱石運搬
第13章 あずま屋風の水洗便所
第14章 二枚の写真
第15章 ガソリン気動車でトロッコ索引
第16章 敵だ!空襲だ!
第17章 二度目の裸


自己紹介

2013-02-05 02:55:00 | はじめに
自己紹介 高橋 英二
 私は大正14年(1925年)7月北海道で生まれ現在東京都杉並区に住んでいます。戦争中工業学校卒業して最初の就職先が南洋拓殖株式会社で昭和18年3月(18才)南洋群島ヤップ島事業所勤務。終戦と同時に同会社解散。20年10月(20才)浦賀に引き揚げた。その後3年位北海道で過ごし、東京に出てきて、GHQ(進駐軍)の仕事をしながら大学に行き30才で卒業、一級建築士の免許もとり、住宅専門の会社に就職。主として木造住宅の設計と監理の仕事に明け暮れ、注文住宅や計画建て売り住宅団地の開発にもたずさわり、手掛けた住宅の数は2500~3000戸になります。
 会社は昭和52~3年頃からカナダやアメリカからの輸入木材で建築する2x4工法の導入に熱心になり、我が家も勿論2x4住宅です。1994(69才)までのサラリーマン生活を卒業し、二人の子供は成長し孫はまだ一人です。今は妻と妻の母の3人で生活しています。
 今から14,5年前(1987年)頃(2x4工法)、図面の手描き作業から(パソコンで図面を描くシステム)CADによる作図作業に換える時機がきていたのでようやく会社もCADを導入したが、いまからみると当時のCADはまことにおそまつなものでた。
 1994年、退職の年に私は僅かでも内職の仕事ができるようにとパワーマック7100/66AVを購入し、その後外付けハードディスク増設やメモリアップなどしてなだめすかしてなんとか今まで無理して使っていたがあまりにも我慢が出来なくなり今年の1月にiMAC DV(500MHz,128MBのSDRAM,30GBのハードディスク)を7年ぶりに新しく購入したので、今までと違ってすべてがきびきびと動き快適になりました。退職後始めたパソコン通信からインターネットを始めましたがようやく最近になってホームページが私でも作れそうなので頑張っているところです。

 それから、私の趣味のテニスとエレクトーンについてのページも興味がありましたら是非ご覧ください。

2001.6.7

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訃報のお知らせ

 皆さま当ホームページ「ヤップ島回想記」に訪れていただきありがとうございます。
高橋英二(当ホームページ管理者)は8月17日(土)未明に永眠いたしました。77歳の誕生日を迎えて1ヶ月後のことでした。
 掲示板や趣味のページで時々ご報告していたのですが、今年(2002年)の4月頃ドクターより肺ガンの再発(転移)の告知を受け、闘病生活に入りました。今回はもう手術も抗がん剤などの薬も使えないということで、なんとか現状維持を続けようと努力しました。酸素吸入器を常時使い、体力温存に努めましたが、思いのほか進行が早く6月14日に肺炎を起してしまい呼吸困難になり救急車で入院することになりました。以来病院で闘病していましたが、8月の猛暑の中、力尽きてしまいました。
 闘病中もホームページのことや、ヤップのこと、趣味のことなどよく話しをしていました。また元気になった時にはパソコンを使ったり、エレクトーンを弾いたり、せめて車椅子に乗って外へ出かけたいなど、希望を最後まで捨てずにがんばっていました。
しかし、願いはかないませんでしたが、たくさんの思い出を抱いて安らかに息をひきとりました。
 晩年このホームページを立ち上げ、生きがいにしていたことを思い、この「ヤップ島回想記」の管理を私(娘 美帆)が引き継いで、父の軌跡を残していきたいと思っております。ヤップの情報やご意見などもどんどんお寄せ下さい。今後は父の闘病生活なども紹介していければと思っております。
これからも「ヤップ島回想記」をよろしくお願いいたします。

 
2002.08.24 高橋 美帆(長女)

2012年 ホームページをgooブログへ移しました。

月刊誌「ゆたか」年金と生活の情報誌11月号に掲載されました。

2012-10-19 17:05:57 | 月刊誌「ゆたか」雑誌掲載の全文公開

雑誌の取材を受けました。(平成13年の7月)
私のホームページを見て取材したいと申し込みがあり、ホームページを立ち上げてから間もなかったので、こんなに反響があるものか、と大変驚きました。
厚生年金の雑誌ということで、老後の生活の取材をしたいとのこと。一人でも多くの人に私のホームページを読んでもらいたいと思っていたので取材を引き受けました。
当日取材スタッフがやってきて、インタビューをする人とカメラマンとそのアシスタント3人で現れ、思った以上に物々しくてびっくりしました。取材中エレクトーンを弾いてほしいと言われ、自信がなかったので少し緊張してしまった。写真はものすごい数を撮ったと思われる。カメラマンの仕事も大変そうであった。
2001年の11月号に掲載され、内容は「ヤップ島回想記を公開する」という題で、76歳にしてホームページを立ち上げた事、ヤップ島への想いなどが紹介されていた。ちょっと有名人になったようで気分がよかったので、知り会い何人かに配ってしまった。貴重な経験でした。


掲載ページの全文を載せたので是非お読み下さい。

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月刊誌「ゆたか」2001.11「さらに人生」というコーナーより 文/渡辺広之
「ホームページを開設し ヤップ島回想記を公開する」 高橋 英二さん(76歳)


昭和18年から~20年までの思い出をテキストにする

 今回紹介する東京・杉並区に住む高橋英二さん(76歳)は自分史を書いていますが、過去のある時間、上手く思い出せない部分があるため原稿を書くのを途中で休んでいます。 しかし興味深いのは、途中までの原稿をしまっておかず、インターネットのホームページで多くの人たちに向けて公開いしていること。
 ホームページの魅力は印刷に時間がかかる本と違って、最新の情報を次々と載せることが出来ること。違った見方をするなら、完成形のない状態がっずっと続くという特性をもっています。
 本の場合、未完成の原稿を載せることは違和感がありますが、ホームページの場合は、そのような性質があるため、未完成の原稿を公開することは問題ありません。というより、書かれていくものが随時公開されていくというほうがインターネット的だともいえます。


 高橋さんのサイトをのぞいてみましょう。タイトルは「ヤップ島回想記」。高橋さんは昭和18年から20年までグアムの南西にあるヤップ島の会社に勤務していました。その時の思い出を綴ったのが「ヤップ島回想記」であり、そのテキストを中心に構成されているのが高橋さんが作ったホームページなのです。


「仕事は、注文住宅や建て売り住宅団地の開発にたずさわってきました。手掛けた住宅の数は3000戸くらいになります。昭和50年代から輸入木材で建築する2×4工法の仕事をしました。自分の家もその工法で設計してあります」


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南国の島、ヤップではこのように暮らしてきた

 大正14年、高橋さんは北海道美唄(びばい)で生まれました。父親が学校の教員だったので村の小さな小学校が高橋少年の住まいでした。しかし父親が早く亡くなったこともあり、高橋さんは苦学して札幌工業学校建築科に通うことになります。そして大学への進学を断念して就職することを選択します。
「そこで、当時日本の委任統治領になっていた南洋群島の小さな島、ヤップ島にある南洋拓殖株式会社という国策会社に就職しようと思ったのです。南洋諸島の農園、農場の開拓や鉱山の経営などをしていた会社です」
 ヤップ行きの船は、神戸港から出航。パラオ経由、約20日間の船旅でした。やっと着いたヤップ島。高橋さんの文章ではこう書かれています。
「海の色が紺青の色から淡い緑そして珊瑚礁の白い海とハッキリ色分けされて、やがて島の椰子林がいっぱい目に飛び込んできた。船は水路近くに投錨する。海岸には迎えの人達が並んでいるのが小さく見える、盛んに手を振っているのがわかる、迎えの艀(はしけ)に乗り、間もなく上陸する。パラオと違って出迎え人は島民が多く、日本人が少ないのに驚いた。一見してパラオとヤップでは大分違うのがわかった。これは私にとって本当の南の島に来たという安堵感があり、それと同時にえらいところに来てしまったと変な感情が入り交じったのが第一印象だった」
 この島での高橋さんの仕事は、会社で使う施設の設計、建設現場の監理でした。たとえば銅抗から掘り出した鉱石を日本へ積み出すための倉庫を作りました。
「男達は小屋組みの上に登って屋根を葺く者と、下から編んだ椰子の葉を差し出す者二手に分かれて作業が進められた。女性達は昨日と同じように、賑やかにおしゃべりしたり歌を唄いながら椰子の葉を編んでいる。編んだ椰子の葉は一枚でも重く大きい。それを2、3枚突き出すように下の者が、屋根に向かって投げ上げる。上の者はそれを受け取り、見事な手さばきで葺いてゆく。すばらしい手仕事である。村中総出で行われたこの作業が、島民の先祖伝来の知恵と技が巧みに織りなした、男女のチームワークで進められてゆく様は見ていて感銘を受けた」


 こうした南国的な楽しげな日常に戦争の影が忍び寄ってきます。そして昭和19年3月、アメリカ軍による始めての空襲を受け、島は相当な被害を被ります。テキストでもその事態は描かれていますが、実はそのあたりで高橋さんは、「ヤップ島回想記」を中断しています。
「この時期から終戦の日までの記憶が曖昧になっているんですよ。空襲の記憶も、後になって読んだ資料に書いてあったことと食い違っている。これがはっきりしないと、その後がやはり書けないものなんですね」
 アメリカ軍からの攻撃や食料不足などの苦しい経験が、記憶を曖昧にさせているのでしょうか。高橋さんはホームページに「(当時の島の)どんな小さなことでもかまいませんので、メールでお知らせください」という文章を載せています。


「大切にもっているヤップ島時代の南洋拓殖株式会社の記念写真と、現地で徴用されたため、渡された海軍行員手帳」

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娘さんの勧めもあってホームページを開設

 平成9年、高橋さんに大きな事態が。健康診断で肺ガンがみつかったのです。
「宣告されたときはショックでした。しかし、早期発見だったので回復も早かったのです。しばらくして原稿の後編をまとめ初めたのですが、なかなか進まない。娘も心配して『これを機会に一度思い切ってヤップ島に旅行しない?』といってくれ、2年前に行ってきました」
 さらに娘さんの勧めもあって、コンピュータを使って今年の6月からホームページを開設しました。
「戦後は住宅建設専門の会社に就職したのです。主として木造住宅の設計と管理の仕事をしてきました。そこで最後のほうは、設計をするときにコンピュータを使っていましたが、ホームページ作りはけっこう大変でした。(笑)」
 阿佐谷駅の近くにある高橋さんのお宅は、ご自身で設計したとても素敵な住宅でした。そこで高橋さんがコンピュータを動かしているところなどを撮影したのですが、「もうひとつ自分が熱中していること」も見せてくれることに。それがエレクトーン演奏でした。
 音楽が「まったくできなかった」高橋さんですが、実際に鍵盤楽器を演奏できたら、どんなにいいだろうと急に思うようになり、今から約10年前エレクトーン教室に通うようになったのです。
「最初はぜんぜんできなくて、簡単な曲も終わりまで弾けず、本当に大変でした。何度も何度も練習しましたよ」
 という高橋さん。今年の夏の発表会で演奏した映画『もののけ姫』からの曲を聞かせてもらいました。これが壮大な展開の曲なのですが、なかなかの腕前。
 その音楽を聴きながら思ったことは、あの「ヤップ島回想記」のことでした。「最初はぜんぜんできなくて」も「何度も何度も練習」することによってエレクトーン演奏ができるようになった高橋さんは、きっと文章も何度もチャレンジして、しっかりとそれを完成させるのではないかと思ったのです。
「私は大正14年生まれですから昭和18年から20年というの18歳から20歳のとき、一番感受性が豊かな時期でした。自分の人生にとってとても大切なときです。そのときのことは、文書で残しておきたいと強く思ったのです。そしてホームページで公開したのは、自分の記憶の欠落部分を埋める手がかりを得るためであると同時に、このネットワークの世界に書き込んでおけば、その文章はずっと残っていくような気したからです」
 高橋さんは回想記の原稿書きにまた挑戦しています。高橋さんが演奏する壮大な展開の音楽のように、それは大いなる物語となるでしょうか。「ヤップ島回想記」全編が公開される日も近いはずです。






ヤップ島回想記 パート2

2012-10-19 17:05:45 | ヤップ島回想記 パート2
 長年書かれることがなかった「ヤップ島回想記 part2」を始動いたします。(2001.6.18)
「はじめに」にでお知らせした通りこのホームページの筆者である高橋英二は昨年(2002.8.17)永眠してしまいましたので、パート2においては私、長女のミホが書き進めて行きたいと思います。
 パート1のような形ではなく、父が生前私にヤップ島での生活について語ってくれた話を思い出しながら進めていくつもりです。
 私は文章を書くのが苦手なので、読み苦しい部分が多々あると思いますがご了承下さい。父から聞いて覚えている事柄はとても断片的なので、上手く表現することができるか不安なのですが、とりあえずまとめてみますので、よろしければご覧下さい。


Part2 目次
第一章 これからが大変
第二章 ヤップの戦況
第三章 終戦までに生活
第四章 幼い特攻隊


つづきはしばらくお待ち下さい


ヤップ島回想記part2 第1章 これからが大変

2012-10-19 17:05:33 | ヤップ島回想記 パート2
---------part1 第17章 二度目の裸より-------------
此の初めての空襲の日から数日してヤップ島に続々と日本の軍隊が上陸してきた。 これからが大変。後編に続く。

「後編に続く」とあるが、この後約5年間後編が書かれることはありませんでした。
以下 文 長女



part2 第1章 これからが大変

昭和19年3月31日に受けたヤップ島への空襲の後、人々はサバイバル生活を余儀なくされた。
 父はこの後徴集令状を受け取り軍事に関わらなくてはいけなくなってしまった。
もともと戦争嫌いで軍人を毛嫌いしていた父だが拒否できる状況ではなかったであろう。
 余談ではあるが父が工業学校での軍事訓練の時間に教官に歯向かって日本刀で切られそうになったことがある。この戦争は間違いである、絶対にアメリカに勝てるはずはないと心の中で思っていたことを口にしてしまったのです。それで教官の怒りを買ってしまったらしい。それ依頼「非国民」というレッテルを貼られてしまったとか。なぜ戦争に反対で負け戦だと信じていたのかという根拠は聞けなかった。
 話は戻って、まずは空襲を受けた飛行場の復旧作業、滑走路の修理・倉庫などの建設をした。この頃にはものすごい数の日本軍が来たそうだ。ただ事じゃなくなったという実感が湧いてきた。
 父は車の運転免許がないにも関わらず、トラックにいっぱい爆弾を積んで何度も運んだそうだ。この事についてはとても楽しそうに話をしていた。晩年も運転するのが大好きで自動車のない生活は考えられないと言うくらいだったので、初めて運転したのがトラックでしかも山あり谷ありのようなデコボコ道だったらしく、ジェットコースターにでも乗っている気分だったのだろうか?爆弾を落っことして爆発するのでは?などということは考えなかったのか?無免許だろうがこの時代には関係ないのか?
 そして緊迫感があるのかないのか、夜中に軍曹達が眠っているすきに何人か連れ立って倉庫にあるビールを盗み飲みして息抜きもしていたらしい。これが格別においしかったらしく何度も挑戦してしまった。のんべえはこの頃から始まったのか?この時代にしたっぱの者がこんなことをしたら拷問でも受けそうなものなのに、無鉄砲者である。
ここまでの話では戦争まっただ中にも関わらず、生きるか死ぬかというより、むしろ楽しそうな体験である。