ヤップ島回想記

太平洋戦争末期のミクロネシアでの奮闘記

第1章 大東亜戦争勃発

2012-10-19 15:10:28 | 第1章 大東亜戦争勃発
1941.12.8(昭和16年12月8日) 其のころ私は札幌工業学校建築科の2年生だった。北1条西7丁目の大通りの近くに下宿していた。
 その日は大東亜戦争勃発のニュースを朝から下宿のラジオで何回も聞き興奮していた。「大本営発表。本八日未明、我が帝国は米・英と戦闘状態に入れり」大本営の報道官のかん高い声が印象的だった。子供心にも日本も大それた事をするものだ、本当にアメリカを相手にして勝てるものなのかと心配し、はやる気持を静めながら学校へでかけた。学校でも皆ざわめいて先生達も興奮していた。
 その頃から学校も軍事教練の時間も長くなり、毎週1時間が2時間となり、私は此の時間が嫌いだった。当時配属将校が3人も居て軍事教練が必須課目だった。あの軍服姿が何故か虫が好かなかった。3年生になる頃札幌市交通勤労報国隊が組織された。これは軍に招集された札幌の交通機関のバスや電車の車掌を、学生が替わってやるもので、わずかな賃金がでるとのことなので、学費の足しになると思い、早速応募した。学校の制服に腕章を付けて勤務するので最初は恥ずかしかったが、やがて馴れてきた。最初は学校が終わって夕方から9時半頃迄だったがそのうちに休みの日や半日の時は午後から終電まで勤務することもあった。其の当時の電車は扉は引戸で車掌が開け閉めする。頭の上にある紐をひくと運転席の鐘がチンチーンと鳴り運転手が電車を始動する。その紐の引き加減が難しく最初はぎこちなかったが、そのうち馴れてきたのか運転手には優しく、はっきりと決して音が大きすぎることのないよう、誰が聞いても心地良く響くように努力した。「ハァイ、動きます、おつかまりください」チーン、チンと、我ながら堂にいったものだった。此の車掌の仕事は卒業まで続いた。