ヤップ島回想記

太平洋戦争末期のミクロネシアでの奮闘記

第3章 俺は行くのだ

2012-10-19 15:11:30 | 第3章 俺は行くのだ
出港したのは夕方だったと思うが神戸の港の灯りが点々と見えてはいた夜景の美しさより、だんだん遠ざかる港をデッキからいつまでも眺めていた。さすがにちょっぴり悲しくなってきた。東京で兄に言われたことを思いだした。お前は本当にのんきなやつだ、前線は容易ならざる事態になっているのだ、ヤップ島がどんなところにあるのかさえ認識していないで出かけるのだから。たしかに大変なことだ、然し今更どうしようもない、俺は決めたのだ。ヤップ島へこれから行くのだ。
灯火管制下の暗い瀬戸の海を辷るように走るがこれが日本の見納めかと闇のなかに黒ずむ山並みをしばし眺めていた。船室は特別三等客室だった、7人が定員でヤップは私と五十嵐さん二人だけで他はパラオの人が多かった。私が一番若く五十嵐さんが最年長であとは25~26才から30位の皆親切な人のようで和やかに過ごせそうだった。その中でヤップに何年か居た人がいてその人から簡単な日常の単語を教えてもらってノートに書き取り、その他いろいろのことを熱心に聞き取り覚えたことは後で大変参考になった。
 石炭、水の補給のため長崎の出島である崎戸港に投錨、そのとき上陸を許される。そこで全員リュックを背負い蜜柑等を一杯買い込んで船に戻る。産地で初めて蜜柑を買うとき、大きい甘い蜜柑に気をとられていたがお店の人に船酔いには、夏みかんの方が良いからと勧められて夏みかんも7~8個位買った、仲間も同じだった。船室は蜜柑の山となった。あまりにも多いので皆も唖然としていた。この蜜柑が後でどれだけ私達に恩恵があったかは後述する。