ヤップ島回想記

太平洋戦争末期のミクロネシアでの奮闘記

第6章 椰子林に覆われた島ヤップ

2012-10-19 15:12:40 | 第6章 椰子林に覆われたヤップ島
ようやく出港の指示があり船に乗る。船は静かに揚錨しコロールの狭い湾口水路を辷り出た。一昼夜でいよいよ目的のヤップ島だ。見渡すかぎり島影一つ無い海洋を順調に航行し夕方前方に島影が見えてきた、ヤップが見えたと誰かが叫んだ、デッキで歓声があがる。遂に来た。段々と椰子林に覆われた島ヤップが近づいて来た。海の色が紺青の色から淡い緑そして珊瑚礁の白い海とはっきり色分けされて、やがて島の椰子林がいっぱい目に飛び込んできた。船は水路近くに投錨する。海岸には迎えの人達が並んでいるのが小さく見える、盛んに手を振っているのが分かる、迎えの艀に乗り間も無く上陸する。パラオと違って出迎え人は島民が多く、日本人が少ないのに驚いた。一見してパラオとヤップでは大分違うのがわかった。これは私にとって、本当の南の島にきたという安堵感があり、それと同時にえらい処に来てしまった、変な感情が入り交じったのが第一印象だった。
 出迎えは南拓の事務所、南洋興発の関係者数人と他は島の女性7・8人、赤ふんどしを絞めた男の島民も数人いた。上陸した時彼女たちがにこやかな笑顔で私達を迎えてくれたことに私達は本当に嬉しかったが、いかにもこの南国らしいヤップ島独特の個性ある彼女たちのいでたちを目の前に見て、ある程度は想像していたが強烈な印象にパンチをくらったようだった。
 彼女達からきれいな花で編んだ大きなレイを首にかけてもらった。其のときなにやら彼女達の体臭が椰子の匂いか何か強烈な匂いが鼻を突いた。それとオッパイ丸だしできれいな腰蓑をつけた裸の彼女達をまともに見られずうつ向いて通ったことが思いだされる。後で聞いた話だが彼女達は公学校の先生とヤップ病院の看護婦達で皆美人の娘さんばかりだったらしい。
 私達は宿舎に案内され五十嵐さんと二人で祝杯を上げて、その夜はゆっくり熟睡し翌朝早く目を覚した。宿舎の独身社宅は新築まもない一軒家で当分五十嵐さんと二人だけの住まいとなるそうだ。 
 南拓の事業所はコロニアの街から少し離れた海岸寄りのオロゥオにあってこぎれいな建物だった。赴任の挨拶が終わり神山所長以下に紹介される。私は建築係勤務で高橋義さんのしたで勤務することになった。当時ヤップではウギリ村で銅鉱を掘削していた。日本の足尾銅山の含有量より品位がヤップ島の方がかなり多いそうだ。
 鉱山技師は神山所長、福井さん、数馬さん、池田さん他に2~3人いたようだ。それに鉱山労務者が400人これは朝鮮から来た作業員でその労務管理は辺見さんが担当していたようだ。ギタムには農場があってそこには南洋拓殖挺身隊の道場が設営されていて昭和14年2月第1次から第6次 昭和16年4月まで130~140名の農業技術者が内地から来られて、此の道場で訓練を受け大半の人が広く内南洋から外南洋へ開発技術者としてそれぞれの事業所へ派遣されて行き、18年4月の頃は7~8名が農場や事務所で勤務していた。道場長の小村さんと塾長の高橋重平さんはコロニアの事務所におられた。
 ヤップに来てから一週間はこれという仕事が無く退屈していたが、私の最初の仕事は銅鉱で必要な火薬庫を設計することになった。鉄筋コンクリート建約2坪半の大きさだ。全く初めての課題だったが構造計算無しで鉄筋は適当に配筋したが、何とか図面を仕上げて高橋義さんの承認をうけた。ところがそれを持って早速ウギリ村へ出張することになった。何と基礎工事から全てを私一人で完成させるのだ。朝鮮労務者を使って基礎工事が始まった。場所はジャングルの中のうねりこんだ小高い丘の中腹に建てることになった。砂、セメント、砂利の運搬が大変な足場の悪い現場だった。生まれて初めて人を使うことがこんなに大変な事だと言うことが分かって来た。
 小さな建物だが一応火薬庫なので壁もスラブもかなりの厚さがあり、いいかげんな仕事も出来ないのでしっかり監督指導しているつもりだったがやはり暑い、それに蚊が多く汗だらけの作業員の苦しそうな作業を見ているとつい一緒になってサボリたくなったが我慢して能率をあげるよう、せかしてやっと一日目の基礎工事は何とか終わらせたが翌日から仮枠工事だ。鉄筋の配筋工事はこれも大事な仕事だ。仮枠は建て付けが曲がったらえらいことになる。汗びっしょりで監督する。いよいよコンクリート打ちだ。場所が悪いのでネコ車で運ぶ距離が長く足場も悪いので悪戦苦闘してようやく打ち上がり、スラブも無事打ち上がり完成する。仮枠を撤去して扉を大工さんに取り付けてもらってやっと工事が完了した。ヤップに来てから内地に引き揚げるまで本当の建築らしい建築工事をしたのは此の小さな火薬庫建設工事が唯一の工事だけであったようにおもわれる。          
 コロニアの街の南拓事務所に帰ってきて何日かたった。上陸してからも気がかりになっていた私の荷物は遂に届かなかった。神戸で次の船便に乗せられたことは確かだが其の船が撃沈されたことが判明、私は悔しかった。おふくろさんが丹精込めて造ってくれた浴衣や布団そして中に入れていた大事な写真、カメラ等を思うと本当に残念だった、私は全く裸一貫で上陸したのだ。然し私の身代わりになったのだと、くよくよせず頑張るのだと荷物のことは諦めた。
 夫婦で赴任していた奥様たちの計らいで当座の寝巻やその他、とくに福井さんの奥様から浴衣を作ってもらったことが有難かった。北海道では子供が浴衣を着るなんて風情は短い夏の一時でないと見掛けられなかった、私も浴衣などあまり着たことが無かったので、大人になってバリッとした浴衣を着て初めて我ながら浴衣姿も悪くないと照れながら着たものだ。
 食事は毎日南拓荘の食堂で朝昼晩3食これが毎日御馳走だった。当時独身社宅に居た神山所長と総務部長の堀川さん、経理の汲田さんと私と同じ社宅の五十嵐さんとそして私の5人が毎日食堂で顔を会わしていた。コックは島民の奥さんをもらっている人で昔外国航路の客船のコックをしていたとのことで、料理の腕は確かで何を食べてもすばらしく美味しかった。何故か所長のは我々より一品おかずが多かった。朝から尾頭付きで其の魚も一匹大きなものだった。肉も魚も量が多くて海老や椰子蟹も度々出る。それとデザートは必ず果物のパパイヤ、パイナップル、ミカン、メロン、バナナ などなどと日替わりで毎日の食事が楽しくご飯はさすが内地と同じ丼飯だがおかずが多いので充分満足できた。此の食事のお蔭で上陸以来体重は6か月で10Kg以上増えて72~73Kgはあったと思う、二重顎になり健康そのものだった。