ヤップ島回想記

太平洋戦争末期のミクロネシアでの奮闘記

第11章 テニスコートの完成と新人の赴任

2012-10-19 15:14:44 | 第11章 テニスコートの完成と新人の赴任
昭和18年8月(1943年)の上旬のある日パラオから船が入ってきた。ヤップに新しく赴任してきた子島(ねじま)君がはるばる内地からやってきた。私と同じ年だが台北工業学校採鉱科卒業で仕事は銅鉱の方の担当だ。当時南拓事業所の社員は24~25才以上が殆どで、20才以下は私一人だったので仲間が増えて心強かった。彼は学生時代テニスの選手だったとかで、たまたまそのころ事務所の全員が毎日午後からの勤労奉仕であたりの木を伐採し、整地してローラを掛けて本格的なテニスコートを完成した頃だった。社員たちのテニス熱も上がり堀川さん達は毎日夕方になると張り切って試合になどに打ち込んでいた。子島君はさすがに上手で皆に一目おかれていて、彼も大いに楽しんでいた。私は全くの初心者だったが大いに関心があり仲間に入りたくコート作りには懸命に協力していたことをおぼえている。テニスは現在でも下手だが好きなスポーツとして続けている。
 帰国後しばらくして彼から聞いて驚いた。私と同じ頃神戸を出港したのに8月上旬赴任とはずいぶん大変な遠回りしたものだ。
 神戸からサイパンに上陸後20日滞在、そこからトラック島まで行き3ケ月滞在。そしてやっとヤップ島に到着したのだ。当時はもう潜水艦による制海権はアメリカに握られて、船舶の航行は、かなり危険な状態にあったのだ。しかし、あの頃の私は、トラック・サイパン・フアエスの位置や距離に対して全く知識が無く、彼がどんなに苦労して赴任してきたかなど考えず彼の話を聞き流していた。私は全く呑気であった。