ヤップ島回想記

太平洋戦争末期のミクロネシアでの奮闘記

第2章 俺は決めたのだ

2012-10-19 15:11:00 | 第2章 俺は決めたのだ
軍事教練の課外実習で旭川第七師団の兵舎に一泊、高等工業への進学を断念して就職することを選んだ。皆銘々好きなところを選んで就職した。私は、当時日本の委任統治領になっていた南洋群島の小さな島のヤップ島を選んだ。其の島にできた、南洋拓殖株式会社、南拓と言う国策会社で広く内南洋に農場や鉱山を持ち外南洋のセレベス、インドネシア、マレー半島等の農園、農場を開拓し又、外資系の農場買収しゴム園やカカオ栽培等とかなり広範囲に事業所があり、現地に相当の要員が派遣されていると、話されていたが当時は全くどのような会社か良くわかっていなかった。
 確かに若かった少年の夢だったが、ヤップ島で建築の仕事をしているうち其処から外南洋へ飛躍出来るのではないかと余りにも愚かなそして無鉄砲な夢を実現しようと就職先を決めた。
 卒業は普通なら昭和18年3月卒業だが昭和17年12月に繰り上げ卒業になった。昭和18年2月ヤップ島赴任のため上京、麹町にあった東京本社で手続き完了、旅費を支給された。当時の300円は大金だった。東京の高等師範学校に通学していた兄と二人でこれが最後になるかも知れないと寿司屋に入り上等な寿司を腹一杯食べたことを思いだす。東京でまず驚いたのは省線電車(J・R)のドアが自動で開いたり閉まったりするのが珍しかった。
 兄にあちこち案内してもらったがあまりにも広いので殆ど憶えていない。兄と別れて神戸の三宮に行き指定の旅館で乗船の連絡を待つた。一週間以上になるのか長引きそうだった。北海道と違って、旅館の部屋は朝晩寒く、暖房は火鉢だけで手をかざして暖を取った。昼間は北海道と違い暖かかった。其のうち退屈になって大阪まで出かけた。阪急か阪神かどちらかの電車かがかなりのスピードで走るのが面白く何回か往復したことを思いだす。ある日旅館の人に勧められて宝塚歌劇団を見に行ったが何故か建物だけ見て中に入らないで帰ってきた。そうしているうちに遂に乗船の連絡が来た。
 私はサイパン丸(日本郵船新鋭貨物船3700トン)昭和18年2月中旬に乗船した。然し北海道から鉄道のチッキ便で送ったおふくろさんが造ってくれた布団や大事な荷物は此の船に間に合わず、次の便になるということで乗船した。乗船してから同じヤップ事業所に赴任する土木技師の五十嵐さんを紹介され心強かった。